宮崎県椎葉村に移住した村上健太さんのLOCAL MATCH STORY 〜日本三大秘境と呼ばれる村で新しい暮らしを見つけたい〜
移住を経験し、地域で活躍されている人を紹介する「LOCAL MATCH STORY」。
今回は、宮崎県椎葉村に移住された地域おこし協力隊OBの村上 健太さんをご紹介します。
そして、この記事は村上さんご本人に執筆いただきました。
自己紹介
はじめまして。村上健太といいます。宮崎県の椎葉村というところに移住して、4年目になります。
地域おこし協力隊制度を使っての移住で、村の移住コーディネーターとして3年間従事しました。任期終了後に一般社団法人を設立し、これまでの取組みを継続する形で事業を運営しています。「ぼくらは、この村で生きていく」というコピーを掲げ、移住・定住促進に加えて、使われなくなったキャンプ場のリノベーションや、古民家を再生したシェアハウスの立ち上げなど、「暮らし」にフォーカスした事業を展開しています。
ぼくらの村のこと
椎葉村は、日本三大秘境のひとつに数えられる、山深い村です。九州のほぼど真ん中に位置し、村の一部は国定公園に指定されています。日本最古の循環型農法として知られる「焼畑」が現代まで受け継がれているほか、冬の伝統行事である「椎葉神楽」は国の重要無形民俗文化財に指定。
平地がほとんどない中で田んぼや畑を切り開き、山の水源地から水を引き、自然の恵みを人の手で生活の糧に変えていく逞しい暮らしぶりは、「日本のブータン」とも評されます。その暮らしが、時代の変化に振り回されない根源的な幸せと結びついているのが、ここに住む皆さんの朗らかな様子から伺える。そんな村です。
写真:神事である神楽も舞わせていただきました
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移住をしようと思ったきっかけ、理由
僕は愛媛県の出身で、大学から東京へと上京しました(思えばこれも一種の移住ですね)。その後、出入りはありつつも、15年以上の時を東京で過ごしました。仲のいい友達も多くいるし、もはや第二の故郷と言っても過言ではない土地です。なのになぜ、東京を離れて移住しようと思ったのか。
一言で言うなら「生きてる手応え」がもっと欲しかったからです。仕事はある、友達もいる。生活には困らない。だけれども、満たされない何かがある。どこか空虚で、乾いたものを感じている。そんな中で起きた、2011年の東日本大震災。電車が止まり、計画停電が始まり、水が出なくなったりするなどして様々なインフラが一時的に麻痺したのを見て、東京という大都会のシステムの脆弱さを感じました。
様々な前提条件が満たされている間は快適に暮らすことができるけれど、ひとたびそれが崩れれば何もできなくなる。電気やガスが止まったからと、火を焚いて暖を取ったり煮炊きすることもままならない。そんな環境では、人としての生きる力が削がれてしまうのではないか、このまま我が身を委ねていてもいいのだろうか…そんな考えが強くなり始めました。
スマホとコンビニですべてが事足りる便利な暮らしに背を向けてでも、生きてる手応えが欲しい。生きる力が自然と養われていくような、そんな暮らしを実践したい。僕にとっての安全安心は、都会にはないのかもしれない。そんな想いが、東京にしがみつこうとする自分自身を解き放ち、この美しくも逞しい、日本三大秘境の村へと導いたのだと思います。
写真:「仙人の棚田」と名付けられた、棚田の風景
移住するまでに悩んだこと/やったこと
とは言え、2011年の震災から、2017年の椎葉村移住まで、約6年もの空白がありました。様々な事情があったものの、東京を手放し、自分の理想の暮らしを実践するというプランの妨げになったのは、慣れ親しんだ友達の存在でした。
小さな頃は親が転勤族で、知らない環境に飛び込むというのは慣れていましたが、大人になってからはやっぱり勇気が要ります。元々そんなに社交的な方ではないので、せっかくできた友達と離れてしまうことに、無意識のうちに抵抗があったのだと思います。何かと理由をつけ、ズルズルと先延ばしにしてるうちに、気がつけば30代も半ば。環境を変えて新しいことに挑戦するにはもう今しかない、そんな状況に追い込まれました。
そこで始めたのが「友達巡礼」の旅。まず「東京を離れる」と宣言し、仕事を減らし、日本全国に散らばった友達を訪ねて回り、近況を交換しつつその暮らしを知るとともに、あわよくば仕事も見つけてしまおうという旅です。実はこのとき決めた移住先は、椎葉村ではなく、自分の地元、松山市でした。友人が経営する無人島カフェの雇われ店長として、一度はUターンしたのです。
でも、自分が求めているのは都会よりも田舎、街よりも村なのだということに気づき、再び移住先を探すことになりました。そのタイミングで出会ったのが椎葉村であり、地域おこし協力隊の求人でした。
この村への移住の決め手
どうして椎葉村なのか、というのは今でもよく聞かれる質問です。率直に言うと「ピンと来たから」。もう少し言うと、下見に行った場所のうち、自分が暮らしている姿がすぐに想像できたのが椎葉村だったのでした。あとは、そこに住む人に「逞しさ」を感じた、というのも大事なポイントです。東日本大震災以降、僕の中では「逞しく生きる」ということがテーマになっていました。険しい山で暮らすこの村の人たちの知恵と技、そして逞しさを自分でも身につけたいと思ったのです。
逆に、条件というのはあまり気にしませんでした。移住祝い金があるとか、病院までの距離とか、教育環境とか…自分が独身で細かいことを気にする必要がなかったというのもあります。ただ、そういう条件面を気にし始めるとキリがないし、後悔しそうだ、というのを直感で感じ取っていたのだと思います。
地域おこし協力隊に応募した理由
そして仕事のことです。これは、一旦Uターンしてから再び移住先を探すとなった段階で、地域おこし協力隊の求人を軸に探すことを決めていました。その時点で少し借金があり、稼ぎの中から返済する必要があること、すぐ起業するほどの能力や手に職に欠けること、そして田舎で自分のやりたいことをやるには、仕事内容が限られる一般就職では難しく、ある程度は自分の色を出すことができる協力隊が最も適しているだろうという総合的な判断からでした。その中で、ポータルサイトから椎葉村での協力隊の募集を見つけ出し、そこに書かれている文章に他とは違う何かを感じ取り、実際に足を運んで下見に行ったところで「ピンと来た」という…そんなわけです。
地域おこし協力隊は自由度が高い制度なので、様々な解釈や実態があります。思惑が噛み合わなければ、お互いが不幸になって終わることも多々あります。僕が意識したのは「役場の下働きにならないこと」「あくまでも移住のステップとなる制度として使えること」の2つ。後にわかったことですが、椎葉村に協力隊制度を導入した担当者が似たことを考えていたのは、僕にとっては幸いでした。
新設の移住コーディネーターという役職は、様々な土地を転々としてきた自分の経歴や、企画制作という職能を活かすことができるものでした。前例も前任者もいない業務ということで、人によっては「何をすればいいのか分からない」という状況に陥りかねない環境でしたが、比較的自己裁量権が与えられた状態というのは自分によく馴染みました。役場の担当者の方と二人三脚で、役割分担できたのも幸運でした。移住に対する考え方の整理や、自分自身を移住の事例として扱うことなど、自由に仕事をさせていただいた担当者の方と役場の皆さんには、どれだけ感謝しても足りないぐらいです。
移住してわかった地域の魅力
どんな地域でも言えることですが、住んでみないと分からない良さがあります。僕の場合は、満天の星空や雲海など、自然が時折見せてくれる美しさであり、水の美味しさと柔らかさであり、集落の皆さんの絶妙な距離感でした。東京では、新宿や渋谷など、都心部に住んでいた時期もありましたが、久しぶりに行くと、あまりの騒がしさと水の不味さに閉口することもしばしば。景色も変わらないし、よくこんなところに住んでたなぁとも思いますが、どちらが優れているというものではなく、求める環境が変わってきたということなのだと思います。
集落の皆さんも、よく言われる「近すぎる」わけでもなく、ほどほどの距離感を保ってくれます。例えば、田舎暮らしでよく聞く、家に帰ったら書き置きもなく野菜が置いてあった…ということはウチではありません。もちろん野菜のおすそ分けは嬉しいけれど、もらいっ放しというわけにもいかないし、誰からのいただき物なのかの確認や、お返しに気を遣ったりするのは案外大変なもの。我が集落の皆さんはそれを分かってるから、あんまりそういうことはしないのです。もちろん「(野菜が)いるかい?」と声を掛けてくれたり、くださいとお願いに行けば快く応えてくれます。まぁ、この距離感というのも好みがあるので、一概には言えないのですけど。近すぎず、遠くもないほどほどの距離感。これは、住んでみないとわからない部分ですね。
写真:自宅の縁側から
移住先でのお金事情について
この村で暮らしてると、財布を一度も開かない日もよくあります(財布をどこに置いたか忘れることも…)。だからと言って溜まっていく一方というわけでもなく、田舎ならではの出費もあります。
車の維持費、農機具代、冬場の燃料代に加えて、ご近所の冠婚葬祭や、お祭りに参加するときの手土産代など。僕はまだ経験がありませんが、責任のある立場になればなるほど、金一封を出す機会が増えるなど、ご近所付き合いでの出費は増えます。ただそれは、強制というわけでもなく「おたがいさま」の精神に基づく、日々の人間関係を円滑にするためのものです。
結局のところ、重要なのは可処分所得だと考えています。例えば、東京では月に30万は稼いでいたけれど、ストレス解消なんかも含めた生活費で手元には1万円も残ればいい方だったとします。一方、村での暮らしでは、稼ぎは半分になったけど5万円は手元に残るようになったとすれば、どちらがいいですか?という話です。
もちろん、大きな病院が遠かったり、村内に高校がなかったりして、医療や教育費に関しては都会よりも出費が大きくなる面もあります。ただそれは、工夫次第です。田舎に住んだら健康になって医者いらずになった、とか、教育は思い切ってオンラインに切り替えたら家族の絆も深まった、なんてこともあります。折しも、コロナ禍で時代が一気に変わろうとしている現在、日常の在り方に変化を起こすにはちょうどいい時期かも知れません。
写真:作業の後は焼き肉と焼酎飲み
移住先での住まいについて
移住先での住まいについてもよく聞かれます。移住に当たっては「家」「仕事」「人間関係」の3つのハードルがある、というのが僕の持論です。地域おこし協力隊という制度は、この3つを一挙に解決し得るもので、まず「仕事」は手に入るし、椎葉村の場合、「家」については村営住宅を確保、任期中は無料です。任期終了後も住み続けることもできるし、村内で他に住みたくなった地域があれば、そこでじっくり家を探すこともできます。実際のところ、空き家の紹介も人間関係に基づいて行われるため、村内に拠点を置いて家を探すのと、通いながら探すのとでは難易度が大きく違ってきます。
僕の場合はちょっと変わっていて、移住コーディネーターとして貴重な村営住宅を埋めてしまうのには抵抗もあり、移住当初は同じく協力隊で来た先輩移住者の家にルームシェアのような形で転がり込みました。そこから、現在借りている家について大家さんと交渉し、夏には引越しました。と言っても、その家は修理が必要な状態で、自分好みにDIYで直しながら住むつもりが、様々な事情で作業が進まず、未だに台所も整っていない状態なのですが…。ただそれも、自分の暮らしに必要なものを0から見直したい、という想いがあったのでちょうどよかったです。住まいとしての機能が整ってない家に住む、というのは都会ではなかなかできない経験ですから(笑)
写真:とあるお宅から、村の日常
移住して困ったことと解決方法
移住して困ったこと、というのは特に思い浮かびません。酒の席で、みんなが大好きな焼酎が苦手ことぐらいでしょうか…。もちろん、日々の小さな困りごとというのはあるけれど、1人ではどうしようもないことは、周りに助けを求めるとなんとかなります。強いて言えば、その「助けを求める」というのが僕は苦手で、相手も忙しいだろうし…と変に気を遣ってしまって、1人で抱え込んでしまうことがよくあります。
その点、この村で暮らしている人は、自力でなんとかしないといけないことと、人の手が必要なことはきちんと心得ていて、手を借りる必要があるときはしっかりと段取りします。集落の面々の手を借りることで、都会ならすぐ業者を呼んじゃうようなことでも成し遂げてしまうのがすごいところです。自分のことは自分で、自分たちのことは自分たちで、という意識が徹底されています。その強固な絆に、自分がどうやって加わっていくのか。これは課題と言えるかもしれませんが、もうがむしゃらにやるしかないですね。
事業を始めようと思った理由/地域おこし協力隊の活動内容
話が前後しますが、椎葉村の地域おこし協力隊は「ミッション型」です。その他「起業型」や「企業研修型」など、協力隊制度の運用形態にはいくつか種類がありますが、椎葉村の場合は担当ミッションで最長3年間活動し、その後の定住につなげていくというのが狙いでした。
僕は移住コーディネーターとして、移住相談会への出展や、協力隊の求人記事の製作、空き家の調査を進めていく中で、移住者を増やすのにはとにかく時間がかかることを痛感します。土を耕し、種をまき、発芽したら、それを大事に育てていく。その先に収穫があったりなかったりする。その繰り返しです。人事異動によって新しい風を吹き込む必要性がある一方で、一定の方針の元、継続性を持った取組みが必要な分野でもあります。
移住者を増やすことは、僕にとっては仲間を増やすようなもの。協力隊の任期終了後もこれを仕事にするつもりはありませんでしたが、この秘境の村で生きのびていく、つまりサバイヴしていくための取組みとして、継続性を確保しやすい民間の立場で移住定住促進を続けていく必要を感じました。
また、協力隊任期終了後の生業づくりとして取り組んでいたキャンプ場のリノベーションについても継続して取り組む必要があること、自宅として借りていた古民家をシェアハウスとして改修していくための資金集めが必要なことなど、様々な状況を加味して、事業化することがベターだという結論に至りました。
というわけで、移住当時は、自営業ぐらいの規模で細々と自分の暮らしを作っていくことを想定していたのに、気がつけばすっかり話が大きくなってしまいました。自分がやらなきゃ誰がやる、ぐらいの感覚で、冷静な経営者なら手を出さないような事業を始めてしまったような気がしますが、何事もやってみないとわからないもの。それに、できるかできないかではなく、人にはやらねばならないときがある、そういうつもりでやってます。
写真:ビジョンマップ作りの打合せ
事業を始めるまでにやったこと
まったく新しいことを始めるわけではなかったので、事業を始める準備というのは内容に関してはそんなにありませんでした。それよりもまず決めなければいけなかったのが、法人にするかどうか。任意団体+個人事業主でやる方法もありましたが、対外的な見え方とか大は小を兼ねるとか、色々なことを考慮した結果、法人として始めることにしました。
そこからは、全て手作業。DIYで会社を作ったようなものです。登記や税務や労務や、普通なら士業の専門家に任せるようなことも、小規模だからと全部自分でやってみました。そうした方が、全ての流れや由来、経緯が分かると思ったからなのですが、やってみて実感したのは、とっても大変だということ(笑)。いずれは人に任せるようにするかと思いますが、一度は自分で、通してやってみる。法人の立ち上げは一生で何度もできることではないし、やってみて損はないと思っています。
写真:DIYワークショップのひとコマ
事業の内容について
法人の定款には、その目的として「人口減少社会において衰退する中山間地域の逞しい暮らしぶりを見直し、国連で採択された持続可能な開発目標(SDGs)を念頭に進化させることにより、100 年先も続いていく集落とその暮らしを創出すること」と明記しています。
具体的には、暮らしの実践場と移住お試し住宅を兼ねたコンセプト型シェアハウスの立ち上げと運営、体験型宿泊施設化に向けたキャンプ場のリノベーションとその運営、そして情報発信と環境整備を軸とした移住・定住促進事業です。ヨソモノという特性を活かし、村内の人と村外の人が混じり合う場を作り出すことを意識しています。
個人的な野望としては、この日本三大秘境の村を、自給自足という暮らし方の聖地にすること。その先鞭をつけるために、昔と今のいいとこ取りをしてアップグレードした「自給自足2.0」を開発しています。
写真:リノベーション中のキャンプ場
事業の今後のプラン
事業の今後については、まずは黒字化が最初の壁となります。今のところは、補助金や指定管理、業務委託に頼っていますが、これは自転車の補助輪のようなもの、あくまでも助走期間です。まずは経営的に自立すること。そのため、助走期間の間に収益事業を軌道に乗せる必要があります。
キャンプ場での事業を収益の中心に考えていますが、コロナ禍の影響で、人の移動制限が今後どうなるか未知数のため、オンライン化も視野に入れて、宿泊・飲食/イベント・研修の3本柱で企画しています。観光地化して消費されてしまうのではなく、常連や長期滞在者に支えられる、顔の見える関係性の中で細く長く続けていくことを想定しています。
補助金を悪くいう人もいますが、補助することは期待の現れ。そこに甘んじることなく、しかし背中を押されている責任感と共に事業を軌道に載せていくこと。それが、この村で自立して生きていくための方法だと考えています。
写真:ぼくらがめざす「欲しい未来」のビジョンマップ
地方で起業して分かった面白さ、やりがい
都会で起業した経験はないので単純に比較はできませんが、地方での起業は、より生々しい身近な課題と密接であるように思います。僕の場合は、この土地で暮らしていきたいけど、適切な仕事がない。だから自分で作り出す。その結果としての起業、意味合いが強いです。社会問題の解決というよりも、自分自身の課題を解決するための起業というか。
限りがある雇用先の枠が空くのを待つばかりでなく、新たに仕事を作り出す、という強い気持ちが求められているのは、地方のように感じます。だからこそ、都会とは違う感覚の中で、面白さややりがいが生まれてくることがあります。暮らしも仕事も、その半径が狭ければ狭いほど、そこで起きていることがよく見えます。都会に暮らしてるうちに知らず知らず身につけてしまったグローバルな発想を脱ぎ捨て、ローカルな視座を新たに身につけること。それは鳥の目から虫の目に変わるとも言えるし、スペシャリストからゼネラリストへの変化とも言えます。
起業、という言葉に対して肩肘張らずに、ただここで生きていくために必要なことをやっている、というスタンスの人が増えれば、地方はもっと面白くなると思います。
写真:集落営農にて、アワの植え付け
移住を検討されている方へ伝えたいこと
あなたが今、移住を考えているということは、何か変化を求めているのだと思います。自分を変えたい。働き方を変えたい。人生を変えたい。求める変化の対象は様々だと思いますが、変化のためにまず環境を変える、というのは、確かに手っ取り早くてオススメの方法です。
僕は、これまであちこちに住んできました。その数は20ヶ所を超えます。住む場所を変えると、それだけで変わることがあります。ただ、変わらないこともあります。本当の自分、というのがどこにもいないように、最初から自分自身の居場所になる地域、というのはありません。移住先を選びすぎないこと、自分自身の好奇心に導いてもらうことを、まずはアドバイスします。
やりたいことや理想が決まっているなら、それにぴったりと合う場所や仕事を探し続けるのもいいかも知れません。でも、ただ漠然と変化を求めているのなら、ご縁やタイミングに乗って、エイヤッと移住してみるのもいいかも知れません。だって移住なんて、ただの引越しなんですから。正解なんてないんです。大事なのは、まず行動することです。
そして、自分の選択を間違っていなかったものにするのもまた、その後の行動次第なのだと思います。気楽さと、周囲への敬意を忘れずにいれば、きっと幸せは向こうから転がってきます。結果オーライで楽しんでいきましょう。どんな状況でも楽しめるたくましさを身につければ、自分の人生の主役になれます。焦らずに、でも大胆に。それが、ちょっとした移住のコツです。
写真:「椎葉平家まつり」にて、足軽に扮する筆者
【参考URL】
・椎葉村
http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/
・ONLY ONE Shiiba(村の暮らしを伝えるローカルメディア)
http://shiiba.jpn.org/
・椎葉村エリア情報(SMOUT)
https://smout.jp/areas/1876
(終わり) 執筆時期:2020年9月
LIFULL 地方創生からお知らせ
地方移住マッチングサービス「LOCAL MATCH」のティザーページ公開
【未来が描ける移住はじめませんか】
地方移住マッチングサービス「LOCAL MATCH」2021年5月サービス開始
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