「いのちの祭り2024」3日目の朝感じていること。
はじめに
「いのちの祭り2024」3日目の朝。
2日目は、初日や今朝の大雨とはうって変わって強い日差しも差し込む晴れでした。
思ったことをつらつらと書きます。
いのちの祭りという多様な個性の表出の受け皿
ふんどし一丁の人、愛犬を連れてきている人、本当に小さなお子さんも連れてきている人、さまざまな服装、海外の人もちらほら、といて、特に感じたのは、小さい子ども連れの方々。大丈夫なの?と勝手に心配心がもたげるような方々もいたのですが、それも含めての自己責任だと思うと、その様子をみただけで、勝手に思い込み・囚われが解けていくような、そんな感覚になりました。
他のことも含めて、これだけそれぞれの個性の表出をそのまま受け止める数千人規模のフェスは他にはないのでは?と感じる。
平和と自由の両立
「平和と自由」というワードは、現地で会った方がつかっていた言葉なのですが、色んなところでこの2つの両立について考えさせられるシーンを見ます。
もともとこの祭りは、提供者と参加者という概念はなく、参加するには参加協力費を支払い、参加者という立場から祭りに協力するという形になっています。言い換えれば、誰もが消費者ではなく生産者であろうというイメージ。
理想を言えば、運営スタッフをされているすべての方々、会場を貸していただいている施設自体への尊重・感謝、働いている方への尊重と感謝を表現できるかは重要なことでしょう。なぜならば、そもそもそれらがなければ開催自体できていないのですから。
しかしながら、例えば施設を尊重するルールを守らない方も散見されます。スタッフの方が、より守りやすいように改善をリアルタイムで続けておられる状況。
ある種の自由を掲げている祭りにおいて、「自由なんだからいいだろ!」というルールを破る内的な後押しを持ってしまう人もいるのではないか。
1人現れたら、2人3人と続き、連鎖されていく。
(これは、実際に何か大きな問題が起こったということではありません。小さなことについてこういった力学が働いているのではないか?という推測です)
どうすれば、こういうことが起こらずにすむのか?については、引き続き考えてみたいです。
また、かくいう私も、その場で「こうらしいですよ〜」というのを伝えることを徹底できるわけではないので、自分のことを棚に上げてこういうことを書いていると添えておきます。
やっと、私の「いのちの祭り」が始まった?
昨日、運よく気になっていても見れなかった映画『ロマンチック金銭感覚』を視聴することができました。
そこで隣に座られていた方と終わった後に感想など話し合っていたのですが、そこから盛り上がり気づけば2時間近く語りこむことに。
その中で、私が実は1988年から始まるこの祭りの、当時から今に脈々と受け継がれているものを感じ取りたいと思っていたこと、そのために、今年のはじめに本を通じて知った日本におけるカウンターカルチャーとくくられる領域の活動家が出る機会にできるだけ触れようとしていることを話しました。
彼からの話や、この祭りで私が知らなかった側面などを教えてもらうことを通じて、私が触れたかった側面の祭りが見えてきたように感じました。
そう意味で、2日目の夜(後半が始まる直前)にやっと始まった、のかもしれません。
さて、これから気になっていた映画「ホピの予言」を観にいってきます。
他にも気になる場が複数ありますので、今日を経て一体何を感じるのだろう?楽しみです。