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「福岡伸一、西田哲学を読む;生命をめぐる思索の旅」を通じて西田哲学を理解しようとしています

はじめに

昨年末から最近まで探究なかまと毎週少しずつ書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』を読み進めていました。

今回は、西田哲学の内容そのものではなく、この本で西田哲学研究者である池田善昭さんの発言を引用することを通じて、氏が西洋哲学・科学と対比する形で紹介している西田哲学の位置付けについて紹介していきたいと思います。

池田善昭さんの語る西洋哲学・近代科学とは?

このテーマについて池田さんが語っている内容は、書『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から(上下)』の著者である日下部吉信氏に依るものが多そうなので、その書籍にも手を出してみたい(が、哲学も範囲と奥行きが膨大なので本当に興味が湧いたところだけつまみたいw 今の時点ではそこに手を出すまでの意欲は湧いていないかなぁ)

プラトン以降の哲学では、理性やロゴスに適った、われわれに理解できるもののみを人間は考えていくべきだ、という立場がずっと主流になってきた

p41

ソクラテス・プラトン以降現在に至るまで、人間の思考はすべて数学主義、西洋哲学でいうところの合理主義の支配下にあったと言えます。

p43

ソクラテス・プラトン以降、二千数百年にわたって、人間の思考は、本当のリアルな自然の生の世界というものに触れるのではなくて、人間の主観性の中で構成され、作られてきたものを相手にしてきた

p46

西田が目指した方向とは異なる考え方(主観性の原理)に則って、これまでの哲学や科学は営まれてきた

p46

プラトン以降の哲学はロゴスの立場(※)に基づくもの

※自然本来のあり方をとらえようとすること(ピュシスの立場)を忘れて、人間が計量的に組み立てたり、合理化したりして理念化する方法だけでものを語ろうとする立場

p47

「あいだ」を思考するという思考の仕方は、従来の西洋科学にも西洋哲学にもなかった

p55

近代科学の発想の中で生命を見た場合に、姿形という現象のみにとらわれてしまい、その背後にある物自体、すなわち実在を理解することができない

p179

→哲学の世界では、存在と実在は分けて使われているようですが、いまいちまだ意味が分かっていないので理解したいなぁ。

デカルトも、それからカントも、現代の哲学や科学にいまなお多大な影響を与えています。しかし彼らの哲学もまた、「主観性の原理」(※)を抜け出ていないと言わざるを得ない

私たちの理性や論理で近づける範囲のみで姿かたちを理解したり構成したりしていく

p207

近代科学が、ミンコフスキー次元(空間)のように、「時間」というものを単に空間化して、すなわち幾何学的に見てきた

p210

「ミンコフスキー空間」(※)というものが、西洋の近代科学における時間観念を象徴しています。

時間が空間(直線と点)に置き換えられて表現される概念モデル

p252

→ミンコフスキー次元(空間)は、書籍で図が紹介されていたのですがどういうものかまだ分かっていません。が、「時間を空間化する」という表現が印象的だったので引用しました。

近代科学においては、すべてが空間の中で表され、時間が消されている

p253

ピュシスとしての自然がもっている本来の時間というものが、そこ(近代科学)では完全に忘れられていたと言える

p254

西洋では特に科学の場合などで、理論と実践というものを分けてきました。それはなぜかというと、実在の世界と思考論理というものを分けていく、そういう考え方がそこでは支配的だったからです。

p274

哲学のみならずサイエンスでも、真理概念形成に際して、当然「直観」も動員される。しかしながら、その際、直観とは、あくまでも外から見ることでこそあって、それゆえに着眼点に左右され、あくまでも部分的な見え方に過ぎない。

p328

サイエンスでは、確かな「全体性」即ち「区切れない世界」は隠れたまま全く見えてこない

p330

池田善昭さんの語る西田幾多郎、西田哲学の特徴とは?

西田は生命とは何であるかということについて本当によく考えていた哲学者の一人

p28

→生命とは何か?について考えていた日本人の哲学者は他に誰がいるんだろう?という問いが生まれた。

ピュシスの世界にもう一度立ち戻ろうとした西田

その立ち戻ったピュシスから、もう一度、哲学も科学も作り直そうと考えた

p45

わが国に学問として西洋から伝えられてきた哲学、つまり伝統的な西洋哲学や近代科学の筋道・考え方から逸脱していた

p45

西田はある意味では西洋哲学を根本から否定した

p51

彼は、主観(主体)と客観(客体)というものが分かれる手前のところで哲学することを重視します。

p67

「主客未分」というのは『善の研究に始まる西田のすべての哲学的著作、哲学論文を通奏低音のように流れている重要な考え方である

p67

西田の実在論は単純に物質としての<モノ>を説く立場とは全く異なる

西田の実在論は、いわゆる「唯物論」とは完全な別物であることに気をつけなければなりません。

西田の実在論は<コト>を対象にしています。

p259

→実在論、唯物論とはどういうものか?物とは、コトとは?そういう疑問が湧いています。

西田哲学の特色というのは、「因果律にとらわれない」「矛盾律への抵触を恐れない」という側面があります

p268

西田哲学は「統合の学」としてとらえることができる

p271

西田は本当の意味で実在に触れていた哲学者

実在に触れ、自然そのものと同化して(自然と矛盾的に自己同一して)自然を考え抜いた哲学者であったとも言えるかもしれません。

p280

私たちは西田の方法論を正しく学ぶことで、ソクラテス、プラトン以降の哲学やカント以降の科学が陥っている限界に気づくことができ、それによって自然についてもっと知り、ピュシスのもつ真理に近づくことができるようになる

p280

→カントも名前は聞いたことがありますが、どういう人でどんなことを提唱されているのか全然知らないなぁ。

さいごに

私は哲学史をちゃんと学んだことはない、西田哲学も今回初めて知った、科学史もよく知らない、といった状態だったのですが、今回紹介した内容を繰り返し読むことで「何となく」西田哲学がどういう文脈に置かれているものなのか、分かってきました。

(とはいえ、語っている池田さんがそう位置付けたいというバイアスがかかっているのは十分にありえるので他に西田哲学を語っている方の情報にも触れてみたいと思っています)

また、難解と言われる西田哲学を読書会が終わったにも関わらず、ある意味苦しみながら(笑)、なぜ引き続き探究しているのか考えてみたのですが、それは端的にいうと「自身の体感を伝えられるようになるフレームワークだから」かもしれないと思い始めています。

その体感とは、今の私を形作る大きな体験の1つとなったハワイ島のオーガニックファームでのこと。私はその時に、私は「いのちの循環」の中を生きているということを実感する機会がありました。そして、そのレンズで以て自身のそれまでの生活を眺めてみると、「お金がなければ生きていけないと思い込んでいたこと」「経済至上主義の枠の中だけで物事を捉え、農作物なども捉えていたこと」それらのことにも全く気づいていなかったということに気づきました。

それ以降、人生は大きく変わったのですが、この時の自身の体験を紐解くヒントが西田哲学にありそうだと感じています。

また、このあたりは別で探究し記事にもしてきたリジェネラティヴリーダーシップにも通ずるものがありそうですし、言ってしまえば従来の会社・組織をピュシスの側から読み解こうと試みた実験でもあるティール組織にも、通ずるものがありそうです。(生命をテーマにしているんだから当たり前ですわね 汗)

今はまだどのように接続するか分かりませんが、引き続き穴掘りしていこうと思っています。

続きはこちら。

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