日本のヒッピー、カウンターカルチャーとラベル付された基を辿っています
年始にホールアースカタログの産みの親であるスチュワートブランドについて書かれた本を読み、アメリカの1950、60年代に興味が湧きました。
その後、雑誌スペクテイターの特集本をいくつかGETし、概観を掴もうとしてきました。
その中で、日本における動きも気になり、こちらを入手。
さらには当事者側の人が書かれた書籍にも手を出していっています。
『アイ・アム・ヒッピー 日本のヒッピー・ムーブメント史’60ー’90(増補改定版 2nd)』
なまえのない新聞(1972年創刊)
読み進めている中で分かったことは、カウンターカルチャーもヒッピーも主には当時のマスメディア、周りの人が勝手に呼んでいるだけのことで、そういう人たちは存在しない、ということ。
自身の専門領域に寄せるならば、「ティール組織」という組織は存在しないのと似ている。
あくまでラベルということ。
印象的だったのは、日本のヒッピーというラベルにおいて先駆者の1人に位置づけられている方がカウンターカルチャー(反抗文化)について質問された時に答えたこと。いずれも『スペクテイター〈45号〉 日本のヒッピー・ムーヴメント』p170から引用したものです。
「この知られざる文明の原始人である」という表現は、既存のものに反対するのではなく、否定するのではなく、自分たちの思う理想を形にすることから始める・時間をつかう、というスタンスに思えて、共感しました。
とはいえ、実際にそれを徹底するのは並大抵のものではない、ということは『アイ・アム・ヒッピー 日本のヒッピー・ムーブメント史’60ー’90(増補改定版 2nd)』に書かれている、ヤマハが諏訪之瀬島をリゾート開発しようとした時に、すでに現地に住んでいたヒッピー的な人たちの反対を実力行使で妨害し続けていたところから伝わってきます。
そして、こういった構造を同じくする対立は過去のものではなく、現在進行形で日本のさまざまなところで行われていますね。。。
このあたりは、数年前、関西のとある地域にいった時にたまたま出会えたほぼ自給自足の生活を行い、反原発の活動もされている方と話した時の空気感が思い起こされるものでした。
そこには確かな現実があり、息を呑むような、背筋が伸びるような、ヒンヤリするような、そんな体感があったことを覚えています。
今回の主に書籍やインターネットを通じての旅路で得ている情報は、私にとってはいずれもパワフルな情報であり、感じるものはたくさんあれど、言語化に至っていないものが多いです。
引き続き、当事者側・虫の目の情報、俯瞰し解釈を試みた側・鳥の目の情報、いずれにも触れることで立体的に質感を掴んでいきたいと思います。
続きはこちら