【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/11)学習ノート②
(ここまでの11月一照塾)
オープニングの20分、定刻に間に合った人がちょっと得する、一照さんのearly bird talkの模様は、学習ノート①をご覧ください。
この学習ノート②では、先月からのhomeworkをシェアする「道元さんにいちゃもんをつけるワーク&学道用心集講読」のpart 1について振り返っていきます。
0. 10月塾からのhomework
用心第七と第八を読んで「いちゃもんをつけたい、反対をしたい、合意できない一文」を選び、その理由とともに発表する。
§
1. 道元さんの立場の歴史的背景
(塾生aさんのシェア)
僕らのグループのメンバーで共通した意見・感想として、「用心の第七と第八を読んで、それに納得したいと思うような文章がいっぱいあって、一体どこにいちゃもんをつければいいのか困った」ということが挙がりました。
「仏法は諸道に勝る」
「前来入唐の諸師、皆な教網に滞りし故なり。仏書を伝うると雖も、仏法を忘れたるが如し」
「哀れむ可し、徒に労して一生の人身を過ごすことを」
「参禅学道の人、自ら此の故実を伝授す、所依に誤らざるなり。余門には無し」
……これらの文章には、他者批判の態度が見られると思います。
この『学道用心集』は、道元禅師がまだお若い頃に書かれたものなので、現代の言い方で言うならば、「洋行帰りのかぶれた若きエリートが「俺はすごいんだ」と血気盛んに言っている」というような態度かなと思います。
一方、ブッダは「無記」の態度を取られていたことを考えると、道元さんが中国で学んできた哲学的なことについては素晴らしいと思うけれども、道元さんのこのような人間性についてはどうなのかというところにはいちゃもんがつけられるのかな?と思いました。
これと似たような意見が出たグループはある?もしあったら、そのグループの意見も聞いてみたいですね。
(塾生bさんのシェア)
私も、いまaさんが仰られた通りだと思いました。
「辺鄙の境、邪風は扇ぎ易く、正法は通じ難し」と書いてあって、その後に「何すれぞ、何すれぞ」、なぜだろう?と問うているわけですが、「なぜ辺鄙な場所には正法が広まりにくいのか?」ということに対する根本的な検討・解析が行われていなくて、「お前の言っていることは間違ってるからダメなんだ」という言い方で書かれている…という印象を私は持ちました。
「仏道を欣求する人、参禅に非ざれば真道を了知すべからず」というところを見ても、道元さんの宗教的立場を基にした考え方なくしては真実の道には至らないと言い切ってしまっているところに…了見が狭いというか、道元さんが言っていることは、私個人としては納得して腑に落ちているのですが、他の宗派の人というのは、その信者に対して癒しを施して救っているのに、道元さんはそういう事実について受け止めるということをしないで、言っていることだけに対して「あなたの言っていることは違う」と言い切ってしまっているのは、どうかな?と思いました。
(塾生cさんのシェア)
「仏法は諸道に勝る」…"あー、言っちゃったな"みたいな(笑)。
"何かが何かに勝っている"というような言い方を見ると、いろんな仏教書に書いてあることの真逆のことを言っているように感じてしまいます。
「愚者は之れを嗜む、譬えば魚目を撮りて以て珠と執するが如し」…愚者、愚かな者という言い方をしていて、私も自分自身愚かな者だとは思うのですが、こう言われたら元も子もない…というか、ここには価値判断が入っているようにも見えます。"凡夫"というのとはまた違うニュアンスもあって、自分としてはこうは言われたくないし、こういう言い方で他人のことを言いたくない。
こういう全否定のような言い方を、道元さんはなぜするのだろう?ということをグループで話し合っていて、そこにはある歴史的な背景もあったのではないかと。こういうことをこの時代に言うということは、殺されてしまうという覚悟がないとこのような言い方はできないよね…という意見もありました。
道元さんは、鎌倉時代以前の古い凝り固まった仏教に対して全否定するという役割…意識してか無意識でかは分かりませんが、そういう役割を買って出ていたのではないかと思いました。道元さんをこのような全否定に向かわせた何かを、もう少し知りたいなと思います。
(塾生dさん補足)
ここでは言葉だけで語られているので、身体的な実感の表現が感じられないこととのギャップというか矛盾が出ているのかな、という意見も出ていました。
〔一照さんコメント〕
では、いまシェアしてくれた意見に対して答えるかたちで話を進めていこうかと思いますが、何だか道元さんを弁護しなければならないような感じになってきましたね(笑)。
いま出てきた意見にもありましたが、やはりここには時代背景というのがあって、それから道元さんの持ち前の性格ということも関係していると思います。道元さんは、ある意味でものすごく潔癖症的な性質を持っていたとも言われています。曖昧さを許さないような性格だったらしいということ、やんわりとした美辞麗句を並べるのではなく、思ったことをズバッと言うというようなところが道元さんにはあると思います。
道元さんは13歳で出家して、比叡山に上がりました。その当時の比叡山というのは、仏教総合大学のようなところだったわけです。比叡山は天台宗の総本山ですので、道元さんは天台教学を学びました。
天台宗という宗派は中国に興って、天台大師智顗という人が大成した、法華経を所依の経典とする教えです。
インドから中国には、様々な経典がサンスクリット語から漢訳されて入ってきました。以前の塾の時にも言ったと思いますが、当時の人というのは歴史的な意識がなくて、すべての経典というのはお釈迦様が実際に言った言葉だと信じていたわけです。
様々なお経の中には、ずいぶん毛色の違うものがたくさんあるわけですが、現代の僕らからそれらを見ると、書かれた時代も場所も違うのだから内容が違って当たり前と思うのですが、当時の人はそうでなくて、お経はみんなお釈迦様がほんとうに言ったことが記録されたものだと思っていたから、説かれている内容が異なるお経を見た時に「矛盾しているじゃないか!?」と思ったわけです。
◆ 教相判釈
それで、すべてのお経がお釈迦様が語ったことだという前提に立ちながら、内容の違いをどのようにうまく整合的に説明できるか…ということが、当時の中国の仏教の課題となりました。そういうことを「教相判釈」と言います。
教えとその相(すがた)を判別して解釈する…サンスクリット語からの漢訳によって、すべて「お釈迦様はこう言った」から始まるお経が目の前に一挙に現れて、それをどのように整理したらよいのかということが、中国仏教で大きな問題になりました。
◆ 五時八教
教相判釈についていくつかのうまいソリューションができて、そのうちの一つが天台宗で、もう一つが華厳宗になりました。
天台宗では、天台智顗によって「五時八教説」という教相判釈ができました。
お釈迦様は成道されたあと40年間にわたって教えを説いたといわれていますが、五時八教ではその期間を5つの時期に分けて、お釈迦様が説法を始めた最初の21日間(華厳時)で華厳経を説いたのだけれど、レベルが高すぎて誰も理解できなかったので、今度は"幼稚園レベル"の四聖諦などのような最も平易な阿含経から説き始め、その時期を「阿含時」というわけです。
全部説明すると長くなるので途中を端折りますが、最終的には法華経に到達して、それまでに説いていたお経は法華経に導くための方便だったという説明をするわけです。お釈迦様は、衆生にいきなり法華経を説いてもどうせ分からないだろうから…という言い方はちょっと言い過ぎですが(笑)、まだ人々の学びの機縁がそこまで熟していないから、まずは阿含的な教えを説いて、成長の度合いを見ながら、最後に法華経を説いた…というように、相手のレベルに応じて説いた順番で、"空"について説いた般若経を説いたのは「般若時」であるとか、唯識を説いたのはこの時期であるとか、五時八教のシステムの中にすべてのお経(一切経、大蔵経)を分類して並べたわけです。
道元さんは、このような天台の教学を比叡山で学びました。頭のいい人だったし熱意もあったので、他の人たちよりもはるかに早く天台教学を学び終えたのですが、この中には道元さんの求める答えがなかったので、当時の宋代の中国に渡ったのでした。
中国に行って初めて、天童如浄禅師から「正伝の仏法」を受け継いできた道元さんの言い方を借りると「私は禅宗を伝えているのではないのだ、正伝の仏法を中国で伝授されて、それを日本に持って来たのだ」…それが、道元さんの依って立つ"信仰"と言ってもいいですね。
道元さんのそういう立場から見ると、天台教学には決定的に欠けているものがあったわけです。比叡山で学んだことでよかったのだったら、道元さんはわざわざ命をかけて中国にまで行く必要はなかったのですが、道元さんの見識は、それでは満足できなかったということです。
◆ 比叡山のOBたち
道元さんのように比叡山から下りた人たちというのが、鎌倉仏教にはたくさんいます。
法然さんも比叡山から下りました。「智慧第一の法然房」と言われたくらい、天台教学を全て知り尽くしているような人だったのですが、ここには答えはないといって下りた人でした。
それから、親鸞さんも比叡山を下りた人ですね。道元さんや親鸞さんたちに言わせると「僕らは比叡山を卒業した」と言うかもしれませんが、延暦寺の根本中堂に行くと、こういう人たちの肖像画が「かつてここで学んだ人たちです」というように飾られています。「彼らは我々が育てた」と言うしかないですよね、「彼らに見限られた」では、ちょっと格好がつかないですから。
栄西さん(臨済宗開祖)、日蓮さん(日蓮宗開祖)もそうです。僕らが知っている鎌倉新仏教の祖師方はみんな比叡山出身なので、その意味ではすごいですね。
彼らは皆、「ここには答えはない」といって比叡山を下りたわけですが、これはやはり、当時の仏教は貴族が中心になって体制ができている平安という時代の仏教だったからですね。
◆ 日本仏教の重層性
皆さんご存知のように、平安仏教の前には奈良仏教がありました。この奈良仏教を否定するために、最澄さんや空海さんは中国へ行って新しい仏教を学んだのです。それが密教です。そして、平安仏教を否定するかたちで鎌倉新仏教が興ってきたわけです。
ここで「否定」というのは、根絶やしに滅ぼしてしまうという意味ではなくて、それ以前の仏教をベースにして成り立っているので、時代ごとの仏教が層を成して重なっているのです。なので、空海さんや最澄さんの仏教は、奈良仏教がなかったら生まれていなかったと思います。鎌倉新仏教も、平安の仏教をベースにして、それを否定的に乗り越えて出てきたわけです。まったく何もない新しいところから出てきているのではなくて、それを基にしてさらに深められた仏教です。
§
2. Instead of A, B. - 否定の契機
平安仏教から見ると、奈良仏教には否定される理由があったし、鎌倉仏教から見ると、平安仏教には否定される理由があったわけです。新しいものが生まれる時には、この「否定の契機」が必要になってきます。なので、皆さんが「道元さん、それはちょっと言い過ぎじゃないの?」と思うところは、否定の契機ということで勘弁してあげてください(笑)。
道元さんの目から見て、平安仏教には何が決定的に欠けていたのか?ということを僕らは見ていかないといけないのですが、正法眼蔵やその他の書物を見ると、道元さんの言い方というのは、確かに激烈なのですね。
例えば、臨済宗には「数息観」という呼吸を数える観法があって、僕も坐禅を始めた頃にはそれを教わりましたけど、『永平広録』の中には「獣に生まれ変わったとしても、数息観はしてはいけない」というように、すごい言い方で書いてあります。
仏祖曰く、白癩野干之心を発すと雖も、二乗自調之行を作すこと莫れ。
(『永平広録』巻五)
道元さんは「~ではなくて」という否定の契機がたくさんあると思います。
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。
(『普勧坐禅儀』)
「坐禅は習禅ではない」とまず否定しておいて、そうではなくてこれですという言い方をしています。この塾でも以前にお話しした「Instead of A, B.」ですね。このAにあたるものに対しては、道元さんはほとんど全否定に近いです。これが、先ほどアレクサンダー・テクニークのお話で出てきた「抑止(Inhibition)」です。習禅の路線の延長線上には答えはないということを道元さんはどうしても言わざるを得ないので、それを言うための語調はキツくなるかもしれませんね。
このような道元さんの信仰の立場からすると、「仏法は諸道に勝る」としか言いようがないのです。「諸道」というのは儒教とか道教のことですが、当時は「三教一致」といって、儒教、道教、仏教はみんな一つのことを指し示していると考える立場がありましたが、道元さんは三教一致の立場を取りませんでした。
例えば「儒教は仏教のように出家を説かずに、世俗での適用を説いているので、仏教のほうが勝れている」とか、「道教は、因果を撥無している(因果の道理を否定している)から、仏教のほうが勝れている」という具合に、仏教が勝れている理由も挙げています。
道元さんは儒教や道教を蔑んでこういうことを言っているのではなくて、人を救うためにはどう見ても仏教の方が勝れているというように見えてしまうのです。
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3. 仏法を修行し出離を欣求する人、須らく参禅すべき事
皆さんのシェアを全部聞いてから、今日の講読に入るつもりでしたけど、話がこういう流れになってきたので、このまま講読に入ってしまいますね。
道元さんにとっては「出離」、出るというのが大事なことでした。用心の第七のタイトルは「仏法を修行し出離を欣求する人は、須らく参禅すべき事」と書いてありまして、仏法とは出離がテーマであるということが語られています。三教の他の二つ、儒教と道教は出離を説かないので、道元さんにとっては出離を説く仏教の方が諸道に勝れていると言わざるを得ないわけですね。
仏教の中でも、出離の不徹底さに対して道元さんにとっての否定の契機があります。用心の第七のあとの方に出てくる「故実」ということを知らないと出離にはならない。出離という言葉を使って言うかもしれないけど、実際の中身は出離になっていないではないか、というのが道元さんの主張です。その故実とは何かということは後で触れます。
道元さん以前の日本にも、たくさんの経典がもたらされたりなどで仏教は伝わってきているけど、出離を実現する具体的な行を説いていなかった。道元さんにとってそれは坐禅なので、道元さん的には「坐禅を説いていないのは仏教としてランクが低い」と言わざるを得ないのです。
今までの日本では誰も坐禅を知らなかったし、していなかったけど、私が初めて中国から持ってきた坐禅こそがほんとうの仏教だし、それがブッダのほんとうのメッセージである。
…というのが、道元さんの立場です。
§
4. 道元さんの矜持
◆ 空手還郷
これは中国の禅でも同じで、菩提達磨さんが南インドから中国へ渡ってくる以前にも、インドから膨大な数の経典が入ってきて、お寺も建ったしお坊さんもいるけど、それは"家来"がいるだけで、"王様"がいなかった…という言い方をします。
菩提達磨は何の経典も持ってこなかった。身ひとつで船に乗ってやって来て、嵩山少林寺の洞窟の中で坐っていただけなのですが、菩提達磨が来たことによって"王様がやって来た"という喩え方をします。経典やお寺という"付属品"ではなくて、仏法を体現しているほんものが来たということです。
中国と日本の仏教に対する役割において、菩提達磨さんと道元さんはパラレルな関係にあると思います。達磨さんが何も持たずに中国に渡って来たことが念頭に入っているのでしょう、道元さんは宋からの帰国第一声で「空手還郷」、空っぽの手で故郷の日本に帰って来たと言いました。
只是れ、等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず、便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無く、任運に且く時を延ぶ。
(『永平広録』巻一)
菩提達磨が中国へ来た時も、経典も何も持ってこなくて、お経や法具をたくさん担いでやって来たそれまでのインドからの渡来僧とは大違いでした。それまでだったら、やってきた学問僧に対して法華経の講義などをするのですが、そういうことも達磨さんは一切しないで、ただ黙って壁に向かって坐っているだけだったので、「壁観婆羅門(壁ばかり見てじっとしているインドの坊さん)」と呼ばれたそうです。
空海さんは日本に帰って来る時にたくさんの法具や経典、曼荼羅などを持って帰ってきました。それに対して「あいつはいろいろ持って帰って来たけど、俺は何も持ってこなかったぜ…」という道元さんの矜持が、この「空手還郷」という言葉に表れていると思いますね。
◆ 入宋伝法沙門道元
こういう矜持の意識を、道元さんは非常に強く持っていたと思います。彼は特に若い頃、自分を一人称で「入宋伝法沙門道元」と呼んで名乗っていました。前期に東京で読んだ『弁道話』の末尾にも、
ときに、寛喜辛卯中秋日、入宋伝法沙門道元記す
と書いてあります。「宋に入ってほんものの仏教を見つけて帰って来た出家者道元」。『弁道話』も『学道用心集』も、道元さんが30代の頃に書いたものなので、矜持の塊みたいな表現ですね。
『弁道話』には他にも、
それよりのち、大宋紹定のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法救生をおもひとせり、なほ重担をかたにおけるがごとし。しかあるに、弘通のこころを放下せん激揚のときをまつゆえに、しばらく雲遊萍寄して、まさに先哲の風をきこえんとす。
(『弁道話』)
「正伝の仏法を日本に伝えたのは僕ひとりしかいない。僕に何かあったらどうするんだ!」みたいな責任感から「重い荷物を肩に背負っているようだ」と言ったのですね。それに対して僕らは「何を偉そうに!」と思うかもしれないけど、そうではないのではないか。
自分が如浄さんから受け継いだ仏法は日本にはなかったもので、しかもそれによって自分の眼が開いて、やっとほんとうに仏教が分かったという喜びと、これを日本に弘めなければという責任がある。そのあたりは善意に解釈していただければと思います(笑)。
そういう思いの表現として、いま紹介した道元さんの言葉や、学道用心集での激烈な言葉の表現があると思います。
§
5. 真龍を怪しむことなかれ
誠に夫れ勝を愛す可き所以の者は、勝を愛すべきなり。葉公の籠を愛するが如くなる可からざるか。
(ほんとうに、勝れたものを愛すべき者は、必ず勝れたものを愛すものである。葉子高が龍を愛するのと同じではないのである)
ここにはちょっとおもしろいエピソードが引用されています。禅の中でもよく語られるメタファーです。
◆ 葉公好龍
葉公という人は龍が大好きで、龍の置きものとか絵などを家じゅうに飾っていました。その噂が広まって、「そんなに龍が好きなのか。嬉しい奴がいたものだ」と、ほんものの龍が挨拶に来たら、葉公はびっくりして、腰を抜かして失神した…という話です。
これは、「ほんものでない紛い物を愛好して、ほんものを怖がって避けること」を言うときに、葉公さんにはかわいそうですが、禅の伝統ではいつも引き合いに出される喩えです。
道元さんは『普勧坐禅儀』でも、
冀くは、それ参学の高流、久しく摸象に習って真龍を怪むことなかれ。
「ほんとうの龍にびっくりするなよ」という言い方で書いています。
この場合、ほんものの龍とは何か。端的に言うとこれは坐禅のことです。
§
6. counter-intuitive
このあとのところでは、皆さんにとっては少し難しいかもしれないことが書かれていますので、これについてのお話をして、第七の講読は終わりにしましょう。
夫れ仏道を学ぶには、初め入門の時、知識の教えを聞き、教えの如く修行す。
ここでの「知識」というのは「善知識」が略された言葉で、先生とか指導者という意味です。仏道を学ぶ時に指導者が大事だということは、前回の塾で講読したところにも書いてありました。なぜ大事かというと、仏教は常識の延長線上にはないものだからです。
「counter-intuitive」という言葉を僕はよく使うのですが、intuitiveは「直感」という意味なので、それへのcounterなので「直感に反する、経験にそぐわない」という意味になります。
例えば、「天動説」は僕らの直感(intuitive)に合っていますよね。僕らがじっとして動かない上を、太陽や月や星、お天道さまが動いていくわけだから、僕らが経験していることに沿っているわけです。どうみてもお天道さまのほうが動いているにもかかわらず、実際は地球の方が動いているというのが「地動説」ですから、地動説は僕らにとってcounter-intuitiveであるわけです。
真実は経験にそぐわないことがあるのです。
ニュートン力学でいう僕らのcounter-intuitiveは地動説ですが、量子力学の場合は、"光は波であり、かつ粒子である"という「波と粒子の二重性」です。
「え?波と粒子は全然違うものじゃないの?」と思うけれど、僕らの観測のしかたによって、波として現われたり粒子として現われたりするわけです。これも、僕らの経験にはそぐわない現象です。
あとは、「部分と全体は同じである」ということを集合論で証明する、数学の無限論などもそうですね。
仏教にも、僕らの直感に反することがあります。「無我」がそうですね。「僕という人間はいまここにいるじゃないか」と思うけど、実はそれは無数の要素が構成されたかりそめの姿で、脳はそれに騙されているのだ…というような言い方で説明されることがあります。
仏道修行をするには、僕らの経験にそぐわないことを体現している人が必要になります。それが「知識、善知識、正師」です。経験にそぐわないことに直面した時、僕らはそれを「間違っている」と思ってしまうので、それに従うことに抵抗ができてしまうのですが、体現者の存在を頼りにして、経験にそぐわないことに努力を傾けていくというのが修行なので、知識の教えを聞き、教えの如く修行しなければならないということです。
最初は経験にそぐわなくて「嘘だろう?」と思っていたことでも、修行によって「新しい目」を持つことによって疑いがなくなって、あたかも自分の手を見るがごとく明らかになっていきます。counter-intuitiveなことを無理やり納得するのではなくて、それが当たり前になるわけです。
§
7. 法転我/我転法
此の時、知る可き事あり。
いわゆる、法、我を転じ、我れ法を転ずるなり。
仏道を学び始める時に知るべき故実として「法転我」と「我転法」の2つの側面があると説かれています。法のところを具体的に「坐禅」に置き換えてもいいですね。「坐禅が私を転ずる」「私が坐禅を転ずる」という2つの視点があることを言っています。
これは、どちらが良いということではなくて、表という概念は裏があって初めて成り立つように、法と我が表裏の関係になっているというか、同じことを2つの視点から見ているということです。ここで道元さんは、この2つの見方を会得することが大事だと説いているわけです。
◆ ダイナミズム:法と我、波と海
我れ能く法を転ずるの時、我れ強にして法は弱なり。
法還って我れを転ずる之時、法は強にして我は弱なり。
仏法には従来、此の両節あり。
これは非常に大乗仏教的な見方だと思います。「色即是空、空即是色」と同じダイナミズムですね。
これを説明するときには……海の水と波で喩えればいいでしょうかね。イメージとしては、ここで言う法は水に、我は波に喩えて言うことができるでしょう。
「法が我を転ずる」というのは、法の表現として我が現れている。
「我が法を転ずる」は、海の水の上に波が生き生きと"波している"ように、私が法を表現している。
海の上を風が吹いてくるとか、様々な要因でもって海の水が持ち上がってきて波ができているわけです。それを水の側から見るか、波の側から見るかという視点の違いがありますが、実際には「波が立った海」があるだけで、波は海を離れないし、海は波なしには表現されない。
「仏法には従来、此の両節あり」、私が法を表現しているという言い方と、法が私を通して表現されているという言い方の2通りがあるということです。
正嫡に非ざれば、未だ嘗て之れを知らず、衲僧に非ざれば、名すら尚ほ聞くこと罕なり。
「正当な系譜に属した仏法の継承者でなければこのような道理は知らないであろうし、禅僧でなければ法転我とか我転法という言葉すら聞くことはないであろう」と書いてあります。道元さんにとっては、これが非常に大事な仏教の教理のひとつで、仏道修行の実践を導く時に大切な考え方ということです。
◆ 個と超個のダイナミズム
道元さんの別の書物では、「法華転法華」という言い方があります。これは、正法眼蔵の中にある、非常に長い巻の一つです。
ここでの"転"は、「生き生きと生かす」、法が我を生き生きと生かしているというニュアンスです。このレジュメの現代語訳では「私が法をよく"働かせる"」と読んでいますね。
法転我・我転法は、「個と超個のダイナミズム」と言っていいと思います。英語で言うと「personal/trans-personal」ということになります。
個を忘れて超個に傾いてしまうと変なスピリチュアルになってしまう。また、超個を忘れて個だけになるとsecularism(世俗主義)になってしまうのです。「我と法、個と超個のダイナミズムの中にリアリティがある」というのがここでの考え方です。色だけでもダメ、空だけでもダメ、「色即是空、空即是色」の行ったり来たり、どこにも足を置けないような、まさに「転がって」いるところに真実があるということです。
僕らは転がらないでどこかに居着きたいのですが、居着きを許さないのですね。波に居着くことも許さないし、水に居着くことも許さない。僕らは思考する時には「どっちやねん?!」とどちらかに決めたいのですが、「水が波し、波が水している」というような2つの視点というのが修行を動かし、正しい方向へと導いてくれるということです。個と超個の緊張関係の間を、楕円形にぐるぐる動いているというイメージかなと思います。
坐禅も、このダイナミズムの中にある営みです。坐禅は自己否定でもあるし、自己肯定でもある、というようなものです。坐禅は仏や法がそこに実現しているものですが、そこには本来の面目、ほんとうの私がそこに表れていると言うこともできるのです。私に着目すれば法が隠れるし、法を見れば私が隠れるという関係です。これは、坐禅とは何かを解明する時のひとつのセオリーのようなものだと言ってもいいと思います。
若し此の故実を知らざれば、学道未だ弁ぜず、正邪なんぞ分別せん。今、参禅学道の人、自ら此の故実を伝授す、所以に誤らざるなり。
「いのち」というものも、このように成り立っているのではないでしょうか。このダイナミズムは「いのちの理(ことわり)、道理」とも言えると思いますが、これをここでは「故実」と呼んでいて、これを知って仏道修行をしなければいけないと道元さんは言っています。
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……このあと、学習ノート③に続きます。
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