【felissimo神戸学校】藤田一照講演会「Alone with Others」参加レポート(1月29日)
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神戸のウォーターフロントに本社を構えるフェリシモさんが、阪神・淡路大震災を契機に1997年から始めて今年で25年目という長い歴史を重ねているメッセージライブ「神戸学校」に初めて参加してきました(2022年1月29日) 。
月に一度のこの講座、今月の講師は藤田一照さん(曹洞宗僧侶)。
テーマは、「Alone with Others - 未来との向き合い方としあわせとの向き合い方」。
導入:簡単なボディワーク
一照さんの講演会やワークショップなどに参加したことがある人ならよくご存知かもしれませんが、まずはいつものように簡単なボディワークで身体を調えてから。
野口整体的な"活元運動"のように、ネコがいろいろな身体の形になって伸びをする(イヌもする)みたいに、身体と気持ちの赴くままに、自由な動きで気持ちよく身体をのばしていく。
続いて、みぞおちを緩めるワーク。胸の真ん中、剣状突起のすぐ下あたりにあるみぞおちに軽く指を当て、吐く息とともに軽く押し込みながら身体をかがめていく。息を吐ききったら、押し込んでいた指を「ポッ」と離す。この「ポッ」と離したときに、吸う息がスッと入ってくるので、身体を起こしながら吸う息を身体の中に導いてくる。
例えば初対面の人と会う時などで緊張していたりすると、みぞおちが固くなっていることがあります。大事な場面の直前にこのワークをしておくと、人当たりがよくなる…かもしれませんね。
脊椎行気法的に背骨に息を通していって、身体全体として通りのよいコンディションで、一照さんのお話が、言語的理解以前に身体に直接しみ込むように調えていきます。
これらのワークを実修する時に、一照さんが大切にしていることは、
予め定められたメソッドやガイドライン、ものさしに自分を当てはめていくのではなく、その都度々々の自分の感覚に興味を持って、感じて味わいながら、あとのことは身体に任せてただ行ってみるのが、コツといえばコツです。
Alone with Others
一照さんの今回の講演テーマ「Alone with Others」という言葉は、一照さんによる訳書『ダルマの実践 - 現代人のための目覚めと自由への指針』がある、スティーブン・バチェラー氏(スコットランド出身の在家の瞑想指導者、仏教研究者)の著書のタイトルでもありますが、
直訳すると、
「他者とともに、独りで居ること」。
何だか矛盾しているようにも思えるけれど、特に昨今のコロナ禍と言われている混沌・混乱した時代状況では、これまでの時代で常識とされていたこと、うまくいっていたと見えていた方法・仕組みの限界がどんどん露呈してきている。それらをきちんと"手放し、終わらせて"、これからの時代の新しい方法・仕組みを"始めていく、形づくっていく"…。
この「終わらせる」と「始める」を同時にこなすような、ある意味で軽業師的なスキルを、組織レベルでも、また個人のレベルでも練っていくことが求められている大きな転換期がこのコロナ禍なのではないか…という一照さんのお話でした。
きょうのテーマの「alone」と「with others」も、対立概念としてではなく、両方を同時に包摂しているようなあり方を模索するにはどうしたらいいかを、一照さんと聴講者の皆で一緒に考えるひとときでした。
未来と"今ここ"
講演会は、フェリシモの社員さんが一照さんとの対談相手になって、対話形式で進められました。
「未来を願い構想することと、"今ここ"にフォーカスすることの関係は?」との問いかけが印象に残りました。その問いに対して一照さんは、菩薩道を歩む者の四つの誓いと願い「四弘誓願」を例に挙げられました。
煩悩は尽きることがない…けれど、いや、だからこそすべての煩悩を断ち切ることを誓い、願う。
そんなの絶対できっこないからやらない…ではなく、すべての煩悩を断ち切る「方向へ歩む」ことが大事である、と。
歩みの途上でまた煩悩がわいてきたり、修行が失敗したり…。うまくいくこと、よりよくなることを"当てにしないで"、その向きをブレさせないで歩み続けていればそれでいい、その誓いと願いが「四弘誓願」なのですよ、という一照さんのお話に、目の前がパーッと明るく開けるような思いでした。
"自分で考えろ!"
"一照さんの仏道"の大事なキーワードの一つが「愉快」という言葉。「たのしい」と言ったり書いたりする時にも、一照さんは「楽」を使わないで「愉」という文字を用います。
私などはこのことを聞くにつけ、「楽しい、楽」はフワフワ軽く浮いているような感じが、一方「愉しい、愉快」は、もっと下のほうから、奥のほうからじわじわ・しみじみわいてくる感覚、身体の細胞一つひとつがジーン…と細かく静かに振動しているような感じがするものです。
この"愉快"に着目した「愉快に生きるには?」という問いに対して一照さんは、〇〇を手に入れたからしあわせ、△△になったからしあわせ……というような、条件付きのしあわせの「having」モードから、今ここに存在していること自体が愉快という「being」のモードへのシフトが必要なのではないか、と。
その質問を投げた、対談相手のフェリシモの中のひとに対して一照さんは、「質問してくださいましたけど、まぁ結局は"自分で考えろ!"っていうことなんですけどね」と応じて、会場大爆笑!
そのあとフォローするように一照さんは、
とお話しくださったのが、とても印象深く残りました。
lifeの3つのレイヤー(層)
私たちが「ライフ(life)」と一口に言う時に、そこには3つの意味合いが層をなしていると思います…という一照さんのお話は、私が2016年からの4年間にわたって学んでいた、かつての「藤田一照仏教塾」でも折に触れて聴かせていただいていましたが、今回もまた新たな気持ちで拝聴しました。
私たちの日々の暮らしとしてのライフ。
生まれてから死ぬまでをどう生き、どう死んだかの人生としてのライフ。
そして、それらすべての根底にあって支えている「いのち」としてのライフ。
今回のご講演では、それらをそれぞれ「mind-heart-soul」と言い換えてもいらっしゃいましたが、いずれにしても、愉しさ・愉快というのは「いのち・soul」のところから出てくるものなのではないか。
この一照さんのお話について、一照さんとのご縁をつないでくれた後藤サヤカさんが昨年2021年から始めたワークショップシリーズ「京都からだ研究室」で知り合った友人と、休憩時間に話し合いました。
いのちが愉快、soulが愉快…というのは、私が愉快にしていくのではなくして、いのちやsoulはもともと愉快なあり方をしている、もっと言えば、
なのであって、その元々の愉快さを見えなくさせていたり、愉快になりたがっている(愉快でありたがっている)いのちやsoulを抑圧してしまう何らかのはたらきがあって、私たちにできるのは、その見えなくさせているものを取り除き、抑圧しているのをやめることなのではないか…ということを話し合っていました。
質疑応答:問いそのものを深め合う
休憩を挟んで後半は質疑応答タイム。
この講演会は、felissimo本社内の会場でのリアル開催と、ZOOMを使ってのライブ配信のハイブリッド形式で行われました。
ZOOM参加者からの質問は、おそらくZOOMのチャット機能を使っていた…のだと思いますが、現地参加者からの質問は、正面壇上のスクリーンに映し出されたQRコードを、参加者が手持ちのスマートフォンで読み取り、それで出てきた入力フォームに質問事項を書き込んで送信…という、いかにもコロナ禍というようなスタイルで行なわれました。
ここで一照さんは、現地会場からの質問には質問者に直接呼びかけて、送信された質問を互いにさらに深め合いながら考えていたのがすごくよかったと思いました。
一照さんと2年以上ぶりの再会
私自身にとっては、「藤田一照仏教塾」が終了して以来、2年以上ぶりの一照さんとのリアルな場での再会でした。
特に、全編オンラインでの開講となり、結果として最後の一照塾となった2020年シーズンは、私は参加できませんでした…いや、離脱してしまったのでした。
そのことがずっと悔しかったし、つらかったし、情けなかったし、恥ずかしかったし、自分で決めたことなのにとても混乱もしていた。一照さんや塾の皆さんに申し訳なかった…という思いが拭えず、2020年中はオンライン上でもSNS上でも、一照さんたちと接触するのを避けていたところがありました。
もしお会いできる機会があれば「ごめんなさい」と詫びようと思っていました。神戸へ向かう車中でも、そんなことを考えていました。
開演前の舞台脇で控えておられる一照さんを見つけて歩み寄り、久しぶりに生でご挨拶してみると、ごめんなさいと言う心づもりがすっかり消し飛んで(…逆にそれがゴメンナサイw)、実にシンプルに、気持ちよく握手を交わしてくださいました。
「Alone with Others」のお話の中で、これからの時代の望ましい人間関係についても皆で考えました。互いに利用する/される関係でもない、依存する/される関係でも、もたれ合いの関係でもない。
自分の足で立つ者同士が「ただ居合う」。
「場のひと」って何だろう?
上でも少し書いた、サヤカさん主宰の「京都からだ研究室」で、一照塾の頃からずっと仲良くさせていただいている赤野公昭さんから、こんなことを言っていただいたことがありました。
「ひろさんは"場のひと"だね」。
「場のひと」とは、一体どういうことなのか…。いつも考えながら自宅で坐ったりしていました。
その中である時、こんなことに気づいたのでした。
きょうのお話でも、哲学者の永井均さんのいわゆる「独在論哲学」も引用されていました。
<わたし>という存在の比類のなさは、人格とか個性と言うよりは「場」と言った方が、私にとってはしっくりする気がしてきました。この辺がまだうまく言えませんが……。
そしてこの「私が場であること」は、とりもなおさず一照塾で過ごした4年間で、思わず知らずのうちにcultivateされていたことだったのかもしれません。
自分の足で地に立つことを目指して、皆とともに、比類のない者同士でただ居合う。比類なき<場>同士が共振し合う。そういうことを練っていた塾での4年間が、一照さんとの久しぶりの握手に凝縮されていた…少なくとも私はそう感じていました。
一照さん、それから京都からだ研究室以来の再会だったShokoさんも(この文中の表現の一部やいくつかの写真は、Shokoさんが別のSNSへ投稿してくださったレポートから引用させていただきました。ありがとう!)、また、オンラインで参加していた法友もいましたね。
よき学びの場を永きにわたって継続されているフェリシモさんのご努力にも頭が下がります。
皆さんありがとうございました!
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