やさしいバリケード
11月11日に開催された「文学フリマ東京37」で、自費出版のエッセイを販売した。書き終えられた達成感や、本として形になる喜びは、今まで感じたことのないものだ。自分なりに文章と向き合ってきてよかったと心の底から思う。
それから、ブログなどのオンライン上のプラットフォームに自分の文章を残すことと、本にすることは、まるで異なる行為だということを知った。
noteの横書きの文章を縦書きに直し、紙の素材や文字のフォントを選び、表紙のデザインを考える。紙の本を作るということは、文章を書く以外の作業が多くあるのだ。
なかでも、表紙のデザインや色味を考える作業がすきだった。気持ちまでも明るくなるようなピンク色の表紙は、お友達のよねさんにわがままをたくさんきいてもらって完成した。文章を印象づける色とデザイン、紙の素材。ひとつずつ決めていく作業はまるでオーダーメイドの服のようだとおもった。
本の容姿となる表紙は、その本が届けたい内容を視覚で伝える。しかしそれだけではなく、表紙は書き手の言葉を守ってくれているのではないかとおもう出来事があった。
すこし前、とても好きな界隈がSNS上で大きく炎上した。炎上元の投稿には、いくらか目につく表現があったかもしれない。それでも、寄ってたかって繰り返し取り上げる必要はあるのだろうか、と見ていてとてもかなしくなった。その投稿に対し、何かしら指摘があるのなら、直接本人だけに助言するのがよいのではないか、と。しかしこうやってnoteに愚痴をこぼしているわたしも、人のことを言える立場ではないだろう。
SNSには簡単に自分の文章を投稿できる。そして鍵アカウントにしない限り、だれでも自由に投稿を見ることができる。しかし、紙の本という形でエッセイを作り、だれでも自由に見たり読んだりできる現代の環境は、必ずしも良いわけではないのではないか、と感じたのだ。
文学フリマでは、ブース前を通りすがり、本の表紙で足を止めてくれる人がいた。そういう興味を示してくれる人に対して、わたしはようやく自分の本の紹介ができる。わたしとの対話を受け入れてくれる人だけが、表紙をめくる。文章を読み進める。表紙は、書き手と読み手との間にそっと立ちはだかる、やさしいバリケードになってくれた。
読む、読まない。どちらの選択肢も平等に与えてくれる表紙がある紙の本は、SNSよりずっと穏やかな世界をつくる。
愛すべき世界だ。