岩で卒業しようとしてる人がいた。
先日東京芸術大学の卒展におじゃました。
油絵や彫刻、抽象的なアート、心打たれるものもあれば
何を意味してるのか全くわからないものもあった。
芸術とは、それがまた面白いものだと思う。
ここで私が人一倍印象に残っている作品がある。
その作品は多くの作品が室内で展示されている中、
大学の庭のところに一つポツンと置かれていた。
岩だった。
荒く表面を削られた3mほどの長方形の岩は、複数の絵の具の色をそのまま出したような色で彩られており、上の方には『・・・Bye』と記してあった。
想像して欲しい。私にはあまりにもその作品が一人にみえた。
苦労して入ったであろう東京芸術大学という素晴らしい学舎で、
その卒業展示という華やかな舞台で、
彼はなぜ粗削りの岩を展示することを選んだのだろうと。
自分自身も形は違えど自分の感性と向き合い続ける学びをして、
好きなことに全力な芸大の方々の作品のエネルギーを感じ
自分と似たパワーをそこから感じたりしていた。
けれどあの岩はどうだろう。
パワーどころか、寂しささえ感じた。
寒空の中、多くの作品には横に展示者本人がいる中、そこには誰もいなかった。
私だけが、その岩を見ていた。
すごいとは、思わなかった。
岩さえあれば私もできそうとすら思った。
だからこそ、気になるのだ。
彼がこの人生で何を感じて、何を学んで、今まで何を作ってきたか。
なぜそれの展示をこの場で選んだのか。
その彼の人生そのものが気になった。
どういう人なのだろうかと。
帰りがけに電車に揺られながら聞いた東京事変の『落日』では
このような歌詞があった。
まるで手応えの得られぬ夜
またひとつ小さく冷えていく生命を抱いた
きっとこの人は芸術に全力だったのだろう。
自分の感性、人の感性、評価、人生に触れていく中の孤独が
彼にどうしようもない夜を与えたのではないか。
そんな夜の積み重ねていった先に想像できる冷え切ったような未来が
彼に孤独な岩を作らせたのではないか。
こんなの私の憶測であるが、そんな憶測を受け手が広げるまで芸術なのかもしれない。
最後に、卒展に来てたどこかのおじいちゃんへ
校内にある入場許可のカードをぶら下げて駐車してある
三輪バイクを揺するのはやめてあげてください
どうぶつの森ではないので何も出てきませんよ。
それでは、また笑