見出し画像

嫌な人=自分の体感

突然ですが、「この人ほんとヤダ」って人を頭に浮かべてください。

その人の何が嫌なんでしょう?


態度?言葉?表情?


今、その人から”されたこと”を思い返してませんか?その人のことを嫌だと感じた出来事を思い返しているのではないでしょうか?

過去の出来事であり、過去感じた感情を今、その人に対して感じて「この人ほんとヤダ」って思ってる。


でも真実は。


その人が嫌なんじゃなくて、その人が引き出してくる”自分の体感”が嫌なんです。


HSPさんあるあるですが、私は幼い頃から相手の表情を深く読み取る癖があります。愛着の傷もあり、相手の顔に一瞬よぎる表情から


「こう感じてるんじゃないか」
「きっとそうに違いない」


と勝手に思い込むところがあります。


HSPの共感性はエンパスとも言われ、感じ取ってしまうのは仕方ないにしてもそれが真実かどうか相手の問題であって自分が気にするべきではないのに、受け取ってしまいます。


「あ!私は間違えたんだ」
「否定される」
「指摘される」
「バカにされる」
「痛い目に遭わされる」


今だに相手の微かな表情の変化につい反応してしまう癖があるなぁと、昨日友人と話していて感じました。


その会話の中で気付いたのが、ずっと人と向き合うのが怖かったということ。思い返すと、これまでの人生で意見を言われることを受けずに(無意識に避けて)生きてきたなと。


母親からは「世の中では…」とか「普通は…」とか回りくどく、あたかも「お母さんの意見じゃないけど、あなたは間違ってるよ」というように私の感覚や考えを否定されてきました。(母は今も変わらずそうですが😅)


父親からは逆に何も言われないまま、父の気に障れば殴られる、蹴られる、髪の毛を引っ掴まれて家の外に投げ出されるといった、父なりの意見の表現でした。


母からも父からも、本人の意思や理由を丁寧に分かるように説明されることなく、意見を言われることなく育ったことが今になって分かります。


だから、面と向かって意見を言われたり、自分の意見をハッキリ相手に伝えられる人、平気で指摘できる人が「すごいな…私には無理だ…」と受け入れることができませんでした。

「あの人思いやりがなくて嫌い」って勝手に相手に怒りの感情を抱いてました。

ばすっと平気で意見を言う人を徹底的に避けて生きてきたので、私の人生には幼稚園、小中高、社会人になってからのほんとに数人だけ思い浮かぶ貴重な配役(笑)がいますが、思い返すとその全員に対して、ひとりよがりな怒りを持ち続けていました。


でもこうやって他責ではなく自責の視点で見ると、その人が嫌なんじゃなくて


「あ!私は間違えたんだ」
「否定される」
「指摘される」
「バカにされる」
「痛い目に遭わされる」


と感じ、”反射的に”胸のあたりがギュっと苦しくなる体感、怖くて身体が固まってしまう、縮こまってしまう体感が引き出されるから嫌だったんです。


厳密に言うなら、その体感のほうが先かもしれません。体感にその思考や感情がピッタリとくっついています。

それが怖くて避けて生きてきたんですね。


そんな私も自己受容が進みやっと受け入れる状態が出来たから、ハッキリとモノを言ってくれる友人と出会い、その人からの意見が欲しいとさえ思えるようになったのは大きな進歩。


なぜその人に嫌悪感を抱くのか。他責ではなく自責の視点に立って心の内側を見てみるときっと大きな発見があるので、怖いかもしれないけど、ちょっとだけ勇気をもってチャレンジしてみてください💡


毎日が気付きの連続です。
一歩前に出て、行動してみましょう✨


最後まで読んで頂き、ありがとうございます☺️
参考になるものがあれば、ぜひ今日から実践してみてくださいね✨

ではでは、また!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?