どこでもいい土地のなんでもないホテル——「陰キャが生成変化」するには?
はじめに——「ヒト」の無限の不在、「モノ」の無限の不在
「いつもとは違う場所へ自分探しの旅に出かけても、そこで発見するのはいつもと変わらない自分だ」とよく言われる。では、「いつもと同じような場所に出かければ、そこで生まれるのはいつもとは違う自分」になるのではないか?そんな混乱したことを考えながら小旅行によく出かける。
風光明媚ではない場所がいい。とはいえ寂れた土地のような、それはそれである種の美学に貫かれた場所でもないところがいい。変わった風景だと、それを眺める「自分」には変化が起きないと思うからだ。単純な場所。電車で1〜2時間くらいの、新幹線も泊まるような比較的大きな駅がいい。NewDAYS。開けた停留所。気が利いてるのかどうなのか分からないレパートリーの壁沿いの自販機。
確か『それでも町は廻っている』で、旅先の土地や人々が自分とは無関係に存在している様を見て「切ないような悔しいような」と表現していて感銘を受けたことがある。確かに午後4時ごろに街を眺めると、キャスターバックを引き摺る人々がなにか言い訳をするように歩いていて、一体どんな暮らしをしているんだろうと不思議に思ったりもする。しかしここでの体験は「悔しい」とも少し違うようにも感じる。
この都市には「顔」がない——いわゆる「地方の暮らし」が備える表情が不在なのはもちろん、例えば競馬場近くの駅のような、肌で感じられる身なり顔つきの違いといったものも感じられない。大都市のサラリーマンのような「没個性的」とも違う仕方で「没個性的」だ。大げさにいえば、レヴィナス的な「他者」の顔が備える「無限」がここでは消失しているようで、そのことに軽い救いを覚える。
そしてその「他者」の不在は宿泊先にまで波及する。必ずしも金がないというだけのことではなく、僕はよく進んでアパホテルに宿泊する。こうしたホテルはこちらが働きかけてこない限り、何もしてこないところがいい。「猫」っぽいなと思う。それから部屋や設備が「我」を主張しないのもいい。清潔だが、清潔なだけの物品は「モノ」というよりもシミュラークルのようにも思えてくる。新唯物論的な「モノの無限性」に触れなくて済むようで心が安らぐ。そうしたホテルで何をしているかというと、特に何もしない。溜まった仕事などをしている。あえて贅沢はしないのだ。「あえて贅沢しないこと」以上の贅沢はないように思う。
本題——デジャブと幽体離脱、その混合
本題に入ろう。このようにどこにでもあるような土地を旅し、どこにでもあるようなホテルに宿泊すると、僕は強いデジャブ感を覚える。周知のように、デジャブは不思議な浮遊感を伴うものだ。言語化が難しいが、対象についての記憶と、それを思い出している私の関係が曖昧になる。一人称視点と三人称視点が混在し「私」が不安定になる。実のところ、このデジャブを人為的に起こしたいというのが旅をする第一の動機だ。
しかしそれだけではない。そうしたデジャブを繰り返していくうちに、「ああ、また僕はデジャブにあってるな」と、デジャブのデジャブのような感覚が生じるようになる。これはどちらかというとデジャブをメタ的に経験しているというか、幽体離脱に近い感覚だ。
この幽体離脱もまた、一人称視点と三人称視点の問題が顕在化する現象のように思われる。もちろん、夢の経験を踏まえればわかるように、私たちは自然と一人称視点と三人称視点を切り替えながら生きている。そして幽体離脱に関する認知科学者・小鷹研理氏の研究を踏まえるに、幽体離脱とはその(無意識的な)三人称視点が前景化する現象であるように思われる(なお、デジャブと幽体離脱は認知神経科学的には異なるメカニズムだと言われているが、一・三人称的経験という観点からは両者は近いと思われる。興味を持った人は郡司ペギオ『時間の正体』をぜひ参照してほしい)。
ここでポイントは、デジャブと幽体離脱が同時に起きてると思われるところだ。私見では、デジャブだけ、もしくは幽体離脱だけでは「自分がその現象に囚われてる」感覚だけがある。それは面白いものだが、それだけでしかないとも言える。しかし、この両者を同時に体験することで、ある種の高次の視点を獲得するように、少なくとも体験レベルでは思える。冒頭に冗談めかして述べたように、「いつもとは違う自分」が生成するのではないか?
私見では、ここで重要なのは「複雑さ」だと感じる。ここでは「デジャブ+幽体離脱」だ。例えば、同じく異なる自分への生成変化を促す精神分析は、「寝椅子+自由連想+自動筆記+精神分析医」という一種の方程式を要請するものとして捉えられる。必要なのは、「ワンチャン」ではなく「複雑さ」ではないか?以降ではネット上のコピペを事例に、「複雑さ」についての理解を深めていこう。
「複雑さ」の事例——「意味がわかると怖い話」から
「意味がわかると怖い話」というものがある。ネット上のフォークロアに近いもので、その名の通り、一見普通の話に見えて実は怖い意味が隠された話が無名で大量に投稿されている。その多くは「メッセージを縦読みすると『おまえをころす』になってる」といったなんとも言えないものだが、非常に興味深く感じたものがある。こんな話だ。
この「意味」はわかるだろうか?もし降りていなければバスがもう少し早く出発する。そうすれば落石にぶつからずに済んだという意味だ。
しかし、ここには奇妙な感覚がある。前述の一人称視点と三人称視点という論点を敷衍しよう。落石事故を知った夫は「もしあのバスに乗っていたら」と可能世界に思いを馳せる。ここでは自身の行動が世界に影響を与えないような三人称視点から世界を捉えている。しかし遅れて気づくわけだ。自分もまた一人称として世界に参入しており、その行動によって落石事故に繋がってしまったと。ここに先述したようなデジャブの浮遊感にも近い不思議な(気持ち悪い)感覚があるのがわかるだろうか。
それだけではない。ここには不思議の国のアリスにも通じるような奇妙な因果関係がある。例えば「子供が怖がるのでルートを変更してもらう」とか、それこそ「バスに乗る」ことが原因となっているのであれば、そこから「落石事故が生じる」という結果も仕方ない(?)ことのように思えてくる。しかし、「バスから降りる」という一種の受動的な行動と、「落石事故が生じる」という結果は、バタフライエフェクトのような不釣り合いな因果関係だと捉えられる(だから、この話は「バスから降りる」ではなく「バスに乗らない」という非ー行動にした方が完成度が高かったかもしれない)。
人称性の混乱+不釣り合いな因果関係。先ほどのデジャブ+幽体離脱と内容もその効果も少しズレるところがあるが、ここからいつもとは違う「私」の感覚が生じることが伝わるだろうか?この例で言えば、一種「神」の視点だったのが具体的な「私」の視点になり、しかしそれが「神」のごとく一見関係ない事象を巻き込んでしまう……という視点だ。
とはいえ、コピペだけだと「不思議な話を読んだ」というだけで終わってしまうかもしれない。そこで次からは、長編小説とその評論を手掛かりに、この「いつもとは違う私」を改めて体験してみよう。
『九十九十九』と『ゲーム的リアリズムの誕生』再考
ここでは舞城王太郎の『九十九十九』を取り上げる。なお、記述は本論に関係する最小限のものに留める。舞城王太郎については知っている人も多いかもしれない。元々『メフィスト』からデビューしたものの、ミステリに限らず、純文学や漫画原作でも幅広く活動している。
そして、この『九十九十九』も二次創作の体裁をとった小説だ。この九十九十九とはミステリ作家・清涼院流水の『コズミック』に登場する人気キャラクターで、彼を中心として物語は展開することになる。
この作品の特徴は、なんといっても構造の複雑さにある。まず、この作品は全七話からなっているのだが、多重メタ構造が採用されている。第二話が第一話のメタになっており(第二話で、主人公は第一話を小説として読む)、第三話が第二話のメタになっており……というように。さらに、後半では複雑な時間構造が設けられている。具体的には、主人公は第五話の最後で「タイムスリップ」によって第四話に戻り、2回目の第四話と第五話、続いて1回目の第六話、第七話を経験し、さらにそこからタイムスリップで第六話に戻るのだ。
そして、そうしたタイムスリップの帰結として主人公が増殖し、最終的には三人の主人公たちが会話することとなる。ここでの会話は、作品内でのやり取りを超え、オタク文化で繰り返されてきた「現実と虚構、物語とメタ物語」をめぐる思弁的なものになる。
ここで、一人目の主人公は「成長」し、現実に帰る決心を固めている。他方二人目の主人公は虚構は虚構として責任を持つ態度表明をしている。それを踏まえた上での三人目の行動こそが、あえてこの言葉を使えば「作品のメッセージ」となる。
そこで、主人公はある種結論を先送りするかのように見える行動をとることになるが、そこに東は「現実でも虚構でも、物語でもメタ物語でもなく、……(中略)主人公の結論を先送りする消極的な場面としてではなく、そのような積極的な意見表明の場」を読み込み、「ポストモダンにおける実存文学の可能性」を構想することとなる。
卓抜な読解だと思う。しかし、これは単なる印象論だが、600ページもある『九十九十九』を読んだ時、そのメッセージには感動しつつ、どこかそれを遠くから眺めるような、不思議な感覚に襲われたことをよく覚えている。別のしかたの読解はないだろうか?ここまで議論してきた私たちには、冗談めかして言えば「左翼版ゲーム的リアリズムの誕生」を素描できると思われる。素描しよう。
作品構造に戻ろう。『九十九十九』はメタフィクションを採用していた。これは『ゲーム的リアリズムの誕生』でも論じられているように、メタ構造をとる美少女ゲームと同時代の潮流にいると捉えることができるだろう。ただし注意が必要である。東自身が「感情のメタ物語的な詐術」という言葉で鋭く指摘するように、美少女ゲームで見られる多くのメタフィクションは、ご都合主義的な物語に上手く感情移入させるためのテクニックに過ぎないと言えば言えるのであった。その意味では、『九十九十九』はそのメタを多重化することで、暗黙理のうちにその批評を行っていると、まずは捉えることができる。
しかしもう少し踏み込んでみたくなる。その"効果"とはなんなのか?それは作品自体でも触れられているが、この世界がベタかメタか執着しなくなるという姿勢ではないだろうか。このラインで展開してみる。確かに「一回きりの、充実した生=世界」を肯定するラストは感動的なものではある。しかしそのラストは「論理的帰結としてはそうなるよね」と、どこか幽体離脱的な形で見守る視点を要請してはいないだろうか?
この疑念は「タイムスリップ」というギミックに着目するとよりクリアになる。ここまで述べてきた「デジャブ」との類似については明確だろう。さらにここでは、タイムスリップの結果として主人公が三人に分裂する様にも注目したい。なぜそんなことをするのか?確かに内的対話を行わせるという目的はある。しかしそれで言えば、(つまらない話だが)「天使と悪魔」的な作りでも良かったはずだ。
なるほど、こうした内的対話はそれぞれの立場を明確にし、弁証法的な解決に向かわせるという狙いで仕掛けられることが多い。しかしここではどうだろうか?単純に3つの「倫理」がせめぎ合っているだけで、「解決」が図られたとは考えにくい。むしろ冒頭のデジャブ体験で述べたような「私」が不安定になっている様が刻まれていると考えたら、どうだろうか?
本稿に照らし合わせると、『九十九十九』が特権的な作品たり得ているのは、メタ構造とタイムスリップが組み合わされている——「複雑な」——点だ。メタ構造だけ、タイムスリップだけの作品は数多く作られてきた。どちらにも面白い作品は多い。しかし、すでに「感情のメタ物語的な詐術」と紹介したように、そこでの主体は多くの場合全く動揺されない。翻って『九十九十九』は、「異なる私の視点を獲得するためのマニュアル」として捉えることができるだろう。私たちにとって、あの600ページはそのための訓練なのだ。
付記:なお、メタ構造とタイムスリップに加えて、「二次創作」という設定もこの浮遊感に一役買っているとだろう。また、『ゲーム的リアリズムの誕生』の付録で論じられている『AI R』も概ねこのラインで読み解くことができると思われる。そこでは作中人物レベルの不能とゲームプレイヤーレベルでの不能が重ね合わされており、かつ奇妙な時間形式が採用されている。また、東氏がかつて論じたジャック・デリダの哲学と『九十九十九』を照らし合わせるとどうだろうか?ざっくりとした話になるが、デリダは「生き生きとした」ものに常に懐疑の目を向ける哲学者であった。そこからすると、ラストで提示されたかに見える「一回限りの生=世界」の肯定も……?この観点からの再読は未だ私たちの宿題である。
おわりに——「陰キャ」の生成変化について
以上、旅行・コピペ・『九十九十九』を題材に、「異なる私」が生まれる可能性について述べてきた。ここでキーとなるのは「複雑さ」だった。旅行で論じた幽体離脱とデジャブを中心に、コピペでは人称の混乱と因果関係の奇妙さ、『九十九十九』ではメタ構造とタイムスリップの使用に焦点を当てた。
先述したように、精神分析は寝椅子+自由連想+自動筆記+精神科医という「複雑な」システムによって異なる私が生成されると捉えられる。単数の仕掛けでは、おそらくダメなのだ。とはいえ複雑と言ってもどこまで複雑である必要があるのか?2つで良いのか、5つ以上必要なのか?また、幽体離脱や自由連想を鑑みるに、「私があやふやな感覚」が鍵となるように思うが、本当に必要なものは何か?いつか「異なる私が生成する方程式」が見つかるかもしれない。
さて、前回の美少女ゲームのOP・EDを見る経験につづいて、本稿では異なる私が生まれること、つまりは「生成変化」について考えてきた。なぜそんなことをする必要があるのか?個人が生成変化せずとも、社会や集団が生成変化すれば、個人は別にそのままでもいいのかもしれない。しかし、本稿はそれとは別の立場だ。おそらく社会が変わるには個々人が変化する必要があるし、さらに言えば個人が変化することに「革命」が宿っていると考える。ドゥルーズに近い立場で、これが本稿の「政治」だ(いわゆる政権批判とかではなく、もっと深いレベルでの政治)。
その上で、生成変化を重視する立場についても触れておきたい。僕がドゥルーズの「生成変化」の哲学を知った時、具体的にどうすればいいのかよく分からなかった。よく揶揄されるようにサブカル大学生のピロートークとか、あるいはなんとも言えない現代アートを眺める、といったイメージを持っていた。しかし、それらが「陽キャ」の生成変化だとすれば、おそらくは「陰キャ」の生成変化もあるはずだ。このnoteは、その可能性に捧げられている。
参考文献
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(講談社文庫)
郡司ペギオ『時間の正体』(講談社選書メチエ)
小鷹研理『からだの錯覚 脳と感覚が作り出す不思議な世界』(ブルーバックス)
ジル・ドゥルーズ『ディアローグ』(河出文庫)
元谷芙美子『強運 ピンチをチャンスに変える実践法』(SBクリエイティブ)
舞城王太郎『九十九十九』(講談社文庫)
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