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ロラン・バルト研究をしていた頃(放蕩息子編)

以前書いた、ぼくがゼミで、ベルクソンとゆうフランスの哲学者について研究していた頃の記事が好評でした。なので、今回は、それ以前に、ゼミでロラン・バルトとゆうフランスの、哲学者である佐々木中さんによって、文芸評論家と呼ばれる人について研究していたことについて書きます。

https://note.com/licopene_tomato/n/nb4e6e29b46bc

まず、ゼミでゼミ論のテーマの個人指導があって、ぼくは、ヴァルター・ベンヤミンをやりたい!とお伝えしたのですが、上記の記事に書かせていただいた、後藤浩子先生からは、ベンヤミンはドイツ文学だ、と言われました。とゆうことは、後藤先生の認識では、バルトは、哲学者だ、とゆうことになるのでしょうか?ぼくも、何かの本で、バルトは哲学者だ、と読んだ覚えもあります。ちなみに、後藤先生の自己認識も哲学者で、バルトはイロハのイ、とのことでした。誰よりも、バルトに詳しくなってください、と期待をかけてくださいました。


そこから、ぼくのバルト研究が始まるわけですが、とりあえず、年度末までの提出は間に合わず、ゼミへもゆかず、放浪の研究生活となりました。とりあえず、本屋で、言われた通り、当時、出ていたバルトの文庫本4冊(「エクリチュールの零度」、「表徴の帝国」、「映像の修辞学」、「エッフェル塔」)を買って、徹底的に読み込みました。

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 表徴の帝国 (ちくま学芸文庫 ハ 9-1) https://amzn.asia/d/4FQ4jz8



なお、前述の佐々木さんによれば、本とは、繰り返し読むもの、とゆうことになります。「映像の修辞学」に元東大総長の映画評論家、蓮實重彦先生がバルトと映画について書かれていたので、蓮實先生の本も読み進めました。朝から読んで気づくと8時間経って夕方になっていたり。映団協(法政大学映画団体協議会)での上映やトークイベントなどの仕事や、ぼくが監督した学生自主映画の編集作業もあり、大学(多摩キャンパス)へもゆかず、夕方ごろ大学へゆく、と母親に嘘をついて家を出て、映画も観まくっていました。映画評論家であり、政治哲学者であられる、廣瀬純師匠ゆうところの、映画の「記号の革命的な力」は、バルトの記号論とも、相性の良かった気がします。スイスの映画監督、ダニエル・シュミット監督による、バルトが書いた日本文化論である「表徴の帝国」の一断章のタイトルから題名が取られた、歌舞伎役者、坂東玉三郎が出演する、「書かれた顔」とゆう映画もあるくらいですからね。ただし、バルトその人は、演劇青年でしたが。バルト論執筆にあたって一人で抱え込まず、映団協の先輩で、哲学科の方と議論できたことも良かったと思います。共に仕事をしていた後輩にも、会議後の遅い時間帯に晩飯を奢ってやりながら、バルトの話を聴いてもらってました。映団協の先輩方にも蓮實先生を読んでいる人々はいました。そうした人々との議論も貴重な経験でした。1年経って、ロラン・バルト論を後藤先生に提出したら、「君には、バルトについて書ける知性があると思っていた」とニヤニヤしながら言われました。


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