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朝起きて静かなリビングにじっと座って思うこと

多くの人にとって、そんな時間はないかもしれません。でも、たまには、できれば毎日、たった15分でもいいから、そのスマホを置いて、内省の時間を作ることをお勧めしたい。そんなことを、このところよく考えています。

年始になると、昨年の評価や今年の目標といった言葉が多く見られます。みなさんそれぞれが、自分を振り返り内省しているということかもしれませんが、ここでわたしが伝えたい内省は、少し違ったものです。そもそも「内省そのもの」について触れたnoteはあまり見かけません。そこで今日は、そんな大層なものではないのですが、わたしの考える内省の仕方についてnoteしてみたいと思います。


「寒い」という感覚

朝起きてまだ温まりきらないリビングで、あるいは子どもを学校や幼稚園に送り出して、ひとりになったほんのひとときに、ただじっと自分の「感覚」に向き合ってみてほしい。するとね、例えば、「寒い」って言葉と自分の感覚の間に乖離があることに気づく。どういうことか少し説明すると、人が寒さを感じるのは体の感覚を通してですよね。あたり前だと思っているかもしれませんが、実際に感じてみたことはありますか?これはぜひみなさんにもやってみてほしいのだけど、寒いと感じたとき、体の「感覚」がどう訴えているかに耳を澄ませてみてほしい。

今朝も寒かったんですが、朝起きて洗面所で手を洗ったからでしょうか、指先がキンキンに冷えていて冷たかった。これをより身体感覚に近い表現をするならば、まず指先がチリチリと鈍い痛みを訴えます。指の冷たさを指そのもので感じることはできなくて、次に別の指や手のひらなどに触れたときにはじめて冷たいという温度を感じる。足のつま先も同じです。では、上半身や腕、足はどうでしょう?服を着込んでいるやわらかな綿の感触に、むしろ胴体は温かかったりしますね。じっと体の部位ひとつひとつに耳を済ませていると、指先の感覚。足先の感覚。手のひら、腕、太腿、胴体。。。耳、頬に当たる外気。口の内、鼻はどうだろう。。。それぞれの部位で異なる感覚として現れたものを総合して「寒い」と頭で答えを出しているのです。

わたしたちは身体の感覚による現実と、頭で導き出した「こたえ」としての現実、この2つを無意識に生きているのです。それぞれ「直接経験される現実」と「概念化された現実」と呼ぶことにします。どちらも大切ですが、多くの現代人は、後者に没入しすぎているようです。頭で描かれた概念(こたえ)に没入しすぎることで、身体的な経験が「まるめられて」しまうことがある、端数が切り捨てられてしまってる、ということにもっと敏感であるべきとわたしはこのところよく思います。

これは日々の生活でも同じです。少し詳しく掘り下げてみます。年始のこの時期になると毎年のように語られる評価や目標という言葉を例に、身体によって直接経験される現実と、頭で概念化される現実の2つの軸でみてみましょう。

不安に向き合う

わたしの周りでも多くの人は「評価」に怯えています。わたしも人から評価されることを好みませんので、評価に対して不安を感じるみなさんの気持ちはよくわかります。不安そのものにも、いちど時間をとって耳を澄ませてみてほしい。

まず、こんな問いかけを自身にしてみてほしい。その不安の根っこはどこにつながっているのか。その評価(誰かに自分が低く評価された)が、あなたの実際の存在や生活に何をもたらすのかを感じてみてほしい。好きな子から嫌われてるかもしれない不安。先輩から「あいつは使い物にならない」と失望されているかもしれない不安。同僚に出世競争に負けて陰口を叩かれているかもしれない不安。色んな不安がどんどん押し寄せてきます。その不安の原因を探るのではなく、その不安が結果的にあなたにどのような影響を与えるかを静かに感じてみましょう。あなたの身体が実際に被る実害とは何でしょう。

改めて、朝感じた手の冷たさと同様に、実際の「身体感覚」として不安を感じてみてほしいのです。不安とはなんだろう?身体の感覚として不安を捉えるとき、それはあなたの胸のあたりに感じる不快感のことです。不安を感じるとき、胸のあたりが重苦しく締め付けられるような痛みを感じますよね。これが身体感覚としての不安です。その不安によってあなたは実際に怪我をしたわけでもないし、それによって血が流れているわけでもなく、あなたの胸のあたりに不快を感じる、この感覚をしっかり覚えておいてほしい。

先程の話にもどりますが、わたしたちは2つの現実を生きています。不安を感じるときもそうです。突き詰めていくと、すべての不安は上述した、「概念化された現実」から生まれています。頭の中で反復している心理的な現実です。そして「概念化された現実」はそれを自己体験とするためにどこかでかならず「直接経験される現実」に紐づきます。仮に、あなたの不安がもしあなたの身体に興奮という快楽を与えるとしたら、あなたはきっと不安を強く求めるようになるでしょう。もしかしたら、そういう人もいるかも知れませんw あなたが、なぜ不安を嫌うのか、それは身体に不快を伴うからです。そのつながりを静かに感じてみてほしい。「概念化された現実」から生まれた大きな不安が、身体感覚としてどのような不快な現実に紐づいているのか。すると「寒い」ということばに似た「乖離」を感じることでしょう。多くの人はこの不安から逃れるために「概念化された現実」に籠もり、あるいはその中に原因を探ろうとし、より多くの不安を生みます。ところがひとつひとつの不安がどのような直接的な経験に紐づいているのかを理解すると、その不安が実際に身体に及ぼす事の大小がみえてくるのです。この2つの現実の差をはっきりと認識することで、意識が身体感覚のほうに引き戻されるでしょう。うまくいけば、不安の妄想から抜け出せるかもしれません。

混同しないでほしいのは、実際にいじめにあったり、直接的な危害を加えられているなんて人もいるかもしれませんが、「目に見える不安」はここでは不安とはいいません。不安が目に見える形として現れたとき、それは恐怖に変わります。恐怖は不安とは違います。これは実際的な体験です。身体的な恐怖に襲われるような場合は、その身体の反応に従ってその危機から遠ざかりましょう。逃げるんです。不安っていうのは危機が目に見えない(まだ実在しない)から不安なのです。目に見えないのだから距離を置くことも逃げることもできません。だから身体感覚として紐づけてやると、その具体的な不快にどう対処すべきかが見えてくる。多くの場合、実在しない危機などに対処の必要などないことがわかると思います。

想像力 x 身体感覚

「想像力は知識を凌駕する」と、アインシュタインは言いました。わたしもこの言葉が好きだし、それは正しいと思います。ただ、更にその想像力すら凌駕するものがあるとわたしは思っています。それは、UNIVERSE、万物、宇宙そのもの。

想像力は世界のあらゆる知識を包括する万能な力ですが、しょせん人間の想像しうる範囲に限られます。想像は言語の縛りを受けるし、そもそもあなたの能力や知性の限界を超えた理屈を想像することはできません。でも宇宙・万物には際限がありません。(際限があるのかもしれませんが、そこに人の知性が到達することはおそらくないとわたしは思っています。)犬や猫がスマートフォンのしくみを彼らの知性を超えて理解できないように、人間が生物としての限界を超えて理解できない宇宙の理(=膨大な非知の領域)は途方もなく広がっている。ある人たちはこれを神と呼んだり、ダンマと呼んだり、もしくは大天使と呼んだり、創造主と呼んだりする。呼び方はなんでもいいんです。これらは人の理解を超えた名もなき宇宙の理のこと、どのみち人には理解できないのだから。そういった知性を超えた万物があるという姿勢や畏怖が宗教の本質なのだとわたしは思います。

問題はその知性を超えた理を「知性」や「想像力」によって理解しようという試みの方にあるのではないか。多くの宗教家は神という言葉を理性にて想像しうる偶像として理解しようとする。スピリチュアルだと宇宙の理を謳いながら、非現実的な産物を生み出し、神聖ということばで代替しようとする。でも、その理解は「想像力」からは起こらない。全てが科学技術によって理解可能と信じる現代人もまた、そういった現実を歪曲した目でみている宗教家と変わらない。

改めて、2つの現実で捉えてみましょう。想像力はあなたの頭の中に生じる「概念化された現実」を超えません。むしろ、非知の領域に触れることができるのは、「直接経験される現実」のほうですよね。もちろん、身体感覚にも限界があります。人間には宇宙に存在する波長のうち可視光線しか見ることができないし、犬のような嗅覚も持っていない。コウモリが聞き分ける音を聞くこともできません。身体感覚にこそ生物としての限界がある。ですが、その感覚は無限の非知の世界に常に晒されています。概念による現実はあなたに閉じた世界ですが、身体感覚による現実はあなたに開かれた世界です。だから新しい体験は常に身体感覚を伴うのだとわたしは思います。

目標に向き合う

話を戻しましょうw なんでこんな話をしたのかというと、目標管理の話をしたかったからです。目標ってなんだろう?これを2つの現実で捉えてみる。

目標もまた、「概念化された現実」による世界で作られます。目標はあなたの想像を上回ることはありません。例えば、将来の可能性を広げるために、子どもにはよい大学に行ってほしい!なんて、中学受験を目標にさせている親がいます。でも、中学受験をさせたことで目的の大学にいけるかなんてわかりませんよね?それどころか、大学に行くことがその子の可能性を広げることになるかすら、わからない。むしろ受験で失敗したことで、無二の親友と出会うことになるかもしれない。

目標というのは、つまりはあなたの「考えうる範囲のなかで」最善と思うものを選択させる手段でしかありません。目標を設けることであなたは自分の限界を越えようとしているかもしれない。でもそれは自分自身の限界のなかに閉じた世界線を生きることです。もちろんダイエットをするだとか、プロジェクトを成功させるだとか、既に「こたえ」の見えている範囲のなかで目標を管理するのなら構いませんが、あなたの人生に関わる大きな目標など、その範疇が広がれば広がるほど、あなたは非知の領域に足を踏み入れることになります。そこには膨大な自由が広がっているのに、あなたはあえて「目標」という限界を設けて人生を生きていませんか。

自分に向き合う

わたしたちは日々、膨大な情報や社会的な期待の中で生きています。その中で、自分自身の感覚を見失いがちです。新しい年のはじまりにあたり、少し立ち止まって、自分の身体感覚と向き合ってみる時間を取ってみてはどうでしょう。たいていの場合その不安や恐れから逃れる手段はそれをやめる・しないことです。不安にかられて闇雲の行動するのではなく、朝ただ静かに座り自分の身体感覚に向き合ってみてほしい。そこに生まれた空白に引き戻される感覚を味わってほしい。

人生には限られた時間があります。ただ、同じ80年でもその密度はみな異なります。多くの人はその限られた時間になにを「成したか」で自分を評価しようとします。でも考えてみてください。目の前に豪華な料理があっても、それを味わう舌がなければ、インスタントのみそ汁にも劣ります。人生の密度は何を「食べたか(成したか)」ではありません。美味しいものを美味しいと感じる味覚を磨くことです。目の前の食材を味わう味覚を、現実を愉しめる感性をあなたが持っているかのほうがよほど重要なことです。限られた時間の密度を濃くするためにあながたできることは、想像力をいっぱいにふくらませて「概念化された現実」に生きることでは「ない」とわたしは思う。そのためにあなたにできることは、「直接経験による現実」に覚めていることです。現実をより深く味わうために、あなたの身体感覚をどこまでも繊細に拡張することです。

古の聖人が説いていたことは、決して想像の世界にトリップすることではありません。想像の世界(概念化された現実)に引き籠もることで、あなたは一時の平安を得ているかもしれない。でもそれは結果として身体感覚に鈍感になります。あなたの感性の端数は切り捨てられています。今に生きるとは、その現実の感覚にどこまでも鋭敏でいることです。現実に覚めていてください。

2025年という新しい一年が、すべての人にとって感覚を鋭敏に、より自由に今を味わう年になりますように。

りなる



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