マキャヴェリから学ぶリーダーシップ

マキャヴェリは、メディチ政権が崩壊した後の、共和制フィレンツェ政庁(つまりはデモクラティックな政権)の書記官であった。フィレンツェ共和国の書記官と言うのは、行政官であり、外交官でもある。

彼の思想は、人間性への徹底的な悲観主義、現実主義(realism)に満ちている。マキャヴェリにとって、権力(power)のみが国家の成り立ちと存続を支える柱であった。
マキャヴェリは、君主制と共和制を想定している。マキャヴェリの政治思想は、一人か多数という明快な単純さで出来ている。
ただし『君主論』という題名で明確にされているように、マキャヴェリは現実に存在する政治制度としては事実上、君主制だけしか認めていない。マキャヴェリによれば、君主は、有力者の好意か民衆の好意のどちらかで生まれる。少数の有力者と多数の民衆の対立によって生まれる政治は、「君主制」か、「自由」か、「放縦」か、この三つがマキャヴェリの目撃した現実の政治である。
ルネッサンス期のフィレンツェの内政外交に深く関わっていたマキャヴェリは、政治を完全に俗なもの、人間の汚らしい欲望にまみれた現実的なものとして見ざるを得なかったのである。

「人間についてこのことは言えるだろう。人間は恩知らずで、気まぐれで、うそつきで、卑怯者で、強欲である。ですから閣下、世が上手く治められている限りは、民は皆あなたのものです。民の欲望がまだかなえられそうにないうちは、閣下に、血も、財産も、命も、子どもでさえも差し出すでしょう。しかし、彼らが満たされそうになると途端に貴殿に背くことでしょう。」

「人間の欲望は飽くことを知らず、その生まれつきの強欲のため、人間はどんなものをも欲しようとする。財を成すものもいるが、その数は僅かである。故に人間の不平は尽きることがなく、何もかも足りないといっては自らの境遇が嫌でたまらなくなるのである。」

このような悲観的な人間観はプラトン、アウグスチヌス(St. Augsutine)によってすでに述べられているが、全く救われない人間の本性を直視したマキアヴェリは王に、「ライオンの強さとキツネのずる賢さを兼ねた暴君として振舞うべきである」と忠告した。

この意味でマキャヴェリはアリストテレス、プラトンのような中道(中庸、エクィリブリアム)を嫌う。どっちつかずの態度を取る支配者は滅びる、ということを知っていたからである。支配者は好機をつかんで勝ち馬に乗らなくてはならない。都市は暴君に支配されるか、さもなくば滅ぼされるか、という徹底した二者択一こそが、為政者のとる最善の道であることを説いたのである。

為政者にはモラルも信仰も不要なのである。政治の究極的目的は、国家の安全確保と領土の拡大なのだから、支配者はモラルを超えた存在でなくてはならないのである。マキャヴェリの政治学はあくまでも生存のための戦いである。冷酷ではなく、「非情」のリーダーシップがここにあるのだ。

結語

マキャヴェリは、権力の正当性・政治装置を丸裸にした。マキャヴェリの顔、陰鬱さ、鋭い視線、繊細さなどからみても悪魔的な違反の同義語になった。
無秩序を統治するための権力は、神の名でも正当性があるわけではない。なぜならいかなる善も世界を超越できない。神、自然でも君主にしかるべき態度をとるように仕向けることはできない。権力=人為的現実だ。

権力者は、一見正当な秩序を打ち立てるための権威が不可欠になる。それが神話、物語の創設である。
このような演劇的な演出は、シェイクスピアの中でも取り上げられている。手練手管と、説得の技法、レトリックを利用しながら秩序を課す。君主が人間の情念についての知識をもとに操る技は、罪と血のもっとも恐るべき深淵を推し量ることができる。「目的はおぞましい手段を正当化する」という言葉はここから出てきている。
マキャヴェリは、政治の手の内を明かしたために悪魔扱いに。恐怖をもたらし、呪われた哲学者となった。

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