千利休から考える「おもてなし」
茶の歴史
室町義満の時代→豪華絢爛の北山文化
義政の時代→侘び寂び・幽玄枯淡を特徴とする東山文化
日本:唐の茶が貴族の嗜好品として輸入された。しかし日本では茶が中国・朝鮮のような必需品として根づくことなかった。しかし、鎌倉時代に禅宗僧侶の栄西や道元『薬』として茶を再び日本に持ち込む。
室町初期の喫茶は飲酒や賭博と一緒に楽しまれる習慣。「闘茶」は好例。
そして高尚な精神的・文化的意味づけを与える人物として村田珠光(1423-1502)が登場。珠光は『茶の湯』を創始する。
無駄を排した美学がおもてなしで、禅の影響が強い。
珠光が創始、武野紹鴎1502-1555が発展させた茶の湯。
茶と禅を融合して『おもてなし』を美的に作法化した。実は哲学として完全平等主義の理念につながる側面も併せ持っていた。慈照寺東求堂同仁斎(書斎・居室)の『同仁斎』という名前は、『聖人、一視同仁』という言葉に由来。将軍の義政自身が被差別者であった河原者・芸能の民らと交流を持っており、一視同仁に象徴される平等思想を持っていたとも言われる。極めて希有な存在であり、文化を体現化した人物だ。茶室に在りて『上下』を忘れて『人間本位』として向き合うところがポイント。完全平等な一人の人間とし主客が向き合い、主人は客を丁寧・誠実に気持ちよくもてなすことだけを考え、客は主人のもてなし敬意を持って受け容れることだけに一意専心するのである。(一期一会)そもそも「おもてなし」は、「物をもって成し遂げる」「うらおもてない」から生まれた言葉。そのため、相手の立場を超えて対等に付き合うこと。
茶室における平等主義の強調・身分差別の否定→紹鴎が差別の対象となっていた皮革業を営んでいた。
わび茶:4畳半より小さい部屋、さび茶:4畳半以上
勝敗・上下が明確に分かれる戦国時代に『完全な平等主義思想』を志向する茶の湯(茶道)が隆盛したのは大変ユニーク。これは、世阿弥の『風姿花伝』でも触れられている共通項である。
利休の「おもてなし」
「利休居士」権力におもねない強さ、完璧主義、しかししたたかさや、ビジネスセンスも兼ね備えたマルチ人間。
思想は孔子、キリストなどからも影響を受けている。
利休七則(おもてなしの哲学)
○茶は服の良きように点て
意味 「何事も相手の立場、気持ちになって考える」
○炭は湯の沸くように置き
意味 「何事も丁度良い配置や手順を考える」
○花は野にあるように
意味 「何事も自然にある美しさを活かす」
○夏は涼しく冬暖かに
意味 「何時も季節の移ろいを大切にせよ」
○刻限は早めに
意味 「何時も約束の時刻より少し早めにせよ」
○降らずとも雨の用意
意味 「何時もあらゆる準備を怠るな」
○相客に心せよ
意味 「何事も周囲に対する気遣いを忘れるな」
ユダヤ教系(キリスト教含む)の宗教では、「自分がされて嬉しい事を他人に施せ」と教え、孔子は「自分がされて嫌な事は人に施すな」と教えた。利休は七則を通じて、さらに一歩踏み込んで「相手がされて嬉しい事を人に施せ」と説いた。この価値観は現代日本にも引き継がれており、まさしく日本に生まれ、日本に育った日本人にしか理解出来ない、世界でも日本にしか無い考え方となった。
朝顔の花をワクワクして見に来た秀吉。利休は垣根の花を全て摘み、一輪だけ茶室の床の間に飾ることで、満開を想像させた。
人に招かれ、当時珍しかったスイカと砂糖を出されたところ、砂糖がかかってないところだけ食べて「スイカにはスイカの味がある」とさっさと帰った。
「人の行く 裏に道あり花の山 いずれを行くも散らぬ間に行け」
全ての人をもてなそうとする気持ちを忘れないように。