ハンナ・アレント  危機 を考察する


働くとは?

労働:生きるために必要なものを作ること 例:食事
仕事:すぐ消費されることのない「物」を作ること 例:本の執筆

労働は、生活に不可欠なものを生み出すこと。
仕事は、耐久性のあるものを生み出すこと。

そして活動へ
アレンとはユダヤ人で激しい迫害を受けてアメリカに亡命。20世紀に台頭した「全体主義」の怖さを目の当たりにした。ここで彼女が関心を持ったのが人々の「無関心」。ここから活動の重要性が増す。
活動=社会に役立つ、貢献。


 ハンナ・アレントの思想の骨格は、世界の危機をどう救うかという点にある。
 そのために、世界がどのような危機に見舞われているかをあきらかにする。
アレントが指摘する世界危機は5つほどにまたがる。いずれも20世紀の特質だとされる。

(1)戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。


(2)大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機。


(3)消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機。


(4)世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機。


(5)人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機。

 これらの5つの危機を突破するために、アーレントは「労働」「仕事」「活動」、およびそれらの源泉となる「思考」を原点に戻しなさい、それが「人間の条件」なのではないか、と問うたのである。まさに哲学=自分の頭を使うことである。


全体主義

ハンナ・アレントは全体主義とは何か?という問に対して明確な答えを出した人物として有名だ。
彼女は人間と動物の違い『人間性』とは、人間同士が『互いに異なった個性をもつ人間である事を認めあう事』であると考えた。
そして全体主義とはその人間性を破壊するものだと定義した。

ドイツの全体主義の成り立ちを考えてみよう。
ドイツという「国民国家」はナポレオン率いるフランスに対抗する目的で誕生した。
フランスという強烈な敵に対抗するためには、「国民」として連帯し「国民国家」としてまとまることが必要だったのである。
その過程で、国家から積極的に異分子を排除するべきだという考えが生まれた。
異分子を排除することで、自分たちの共通性を確認でき、より安定で強力な仲間意識が形成されるからだ。
実際のところユダヤ人のドイツ人への同化は進んでいた上に、彼らの社会的な影響力はむしろ低下しており完全な異分子とは呼びにくかった。
しかしながらその事が、逆に仲間を内部から侵食する「社会の敵・ユダヤ人」としてイメージしやすくさせた。
更に、市民社会が成熟したことで、人々が政治に対して受動的になり、無責任な大衆が誕生したこともこの傾向に拍車をかけた。
大衆の不安を利用し、現実の一面を分かりやすく説明した(必ずしも正確である必要はなく、例えばユダヤ人はアーリア人の純潔を汚し世界を征服しようとしているとか)世界観を全面に出した政党が登場し、一つの特殊な世界観で統一された全体主義的な国家が完成した。

全体主義的な国家の中では、国民一人一人があたかも国家という全体を構成する部品であるかのように振る舞う。
さらに国民一人一人の間に差異性はないはないのだから、個人間の関係性をはぐくむことはない。
アーレントは人と人とが差異を認めることで互いの間に『間』が形成され、その『間』のことを『複数性』と呼んだ。
その『複数性』の中で対等に政治的な活動すること(集団の善、みんなにとっての利益を模索すること)で初めて人間は人間らしくなれ、『複数性』を生み出せると考えたのだ。
全体主義は、その『複数性』を破壊し、個人個人での善悪の判断が出来なくさせる、つまりは思考停止状態を陥らせることが最も問題である。

全体主義は何も右翼的な運動のみに限らず、左翼的な全体主義もありえる。
例えば「弱者への愛情を示すことこそ、弱者を救うことこそが政治である。」という考えは、得てして、「弱者への愛情を示さない者は排除すべし」という論法に変化しやすい。自らに賛成する者と、そうでない者と二分化させ、敵を排除することで全体を一つの考えに集約させようとする。これは全体主義に他ならない。
アーレントは「フランス革命」こそが全体主義の萌芽であったと考えた。
人間は生まれながらにして「自由」であり「平等」「博愛」である。
それこそがフランス革命の発明品である。得てして自由とは何か?と問われた際に、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい、それが自由だ。」という解釈をしがちである。
アーレントはこれを明確に否定する。
人間は『人間性』を獲得すべく活動する義務がある。義務を踏まえたうえでの「自由」で、それはひどく不自由な制約のある「自由」だ。そして、「平等」であることは活動をするために最低限度必要な条件であり、十分条件ではない。
人は生まれつき「平等」ではないことが多いが、皆が互いの差異を認めることで「平等」になる。しかし、それは政治的活動のスタート地点に立ったということに過ぎないのである。
分かりやすく言うと、「自由で平等だ。生まれながらに素晴らしい人間なのだ。」という考えは嘘っぱちで、自分一人にとどまらない「みんなの利益」を、みんなで考えること ―つまりは政治的活動をすること― でしか人は人間にはなれない。真の人間性は形成されないということだ。彼女は、古代ローマのポリスでこのような政治的活動が実行されていたとし、理想であるとした。この点はしばしば批判される。
「それはヨーロッパ人の過去の話で、日本人には関係がない。」
「ローマでは女性は政治に参加できなかった。女性は人間ではないというのか?」
「現実にはポリスでも衆愚的で打算的な政治が行われていた。それは理想ではない。」民主主義の欠点は「生まれながらにして人間は素晴らしい」という幻想を生じさせたことである。
そして、その欠点が民衆に人間らしくあるための努力を忘れさせ、全体主義を生んだ。ならば全体主義へのカウンターとして、彼女なりの理想を掲げてみせ、もがいてみせる、というのが彼女の考えだったのだ。

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