メルロ=ポンティ 岸和田だんじり祭りと身体性の哲学
心と身体
金原ひとみ『蛇とピアス』自傷行為をなぜするのか?
不安と憤りを身体にぶつけることで心が晴れる。でもなぜ自分に向くのか?
傷ついた身体の痛みが心の痛みと連動し、共鳴すると考えられる。
自傷行為=心と身体のバランス装置であり、アイデンティティの確認作業。
自分は誰?不安感?存在証明?不確かな心を身体がつなぎとめている行為と言える。
「でもそれでもなぜ自傷行為するのか?」
それは身体の他者性にある。(身体の両義性)
岸和田だんじり祭りを考える。
前梃子を持っているとき、人は梃子と同化している。身体が記憶しており考えずに自動的に動く。
『それはすでにはじめから終局に触れており、それ自身がその終局に身を投げていくのだ』
梃子とコマの関係を考えながら誰も、走らないし走れない。怪我や恐怖を乗り越える決意と身体が一体化している状態。
例:自転車の運転、車庫入れなどなど
棒で何かを触ってみる。古典派の解釈では手でわかるのは棒の感触のみ。しかし現実は、物体の感覚もわかる。まさに道具は身体に編入されて、身体の一部になるのだ。
子供が字を覚える。鉛筆の使い方、指との関係、動かし方etc…。しかし1度覚えれば鉛筆でも、マジックでも、チョークでも書ける。オルガン奏者も他人のオルガンでも弾ける、車の運転もハンドルの位置、レンタカーを問わず、普遍的な「やり方」が身体に記憶されていれば、苦も無くできる。この「やり方」が「一般式」でありこの一般式を状況において「変換」することで応用が可能になるのだ。
換言するに、身体は1人称であるが、同化したときに非人称になるのだ。だから自分の身体の変化に鈍感になる。そこで痛みを与えれば、我に返る。
たとえば整形手術:身体を変えることで心も変わる?
自傷行為も整形手術も根っこは同じ。
自傷行為:心のマイナスに身体もマイナスにすることで合わせる。
整形手術:身体をプラスにすることで心のマイナスを引き上げている。
心はどこにある?
デカルト以来の大問題
胸?頭?
私たちがモノに触れ感じるのは常に身体を通じて行われる。
身体は機械ではなくて、世界をつなぐ手段である。身体=肉が他者を媒介し、共通の感覚を教えてくれる。
心と身体の一体化
身体への刺激で心が晴れる。
身体は元気だがふさぎこんでいる人は、身体が元気なことの大切さを考えていない。
身体を大切にすることで心の病も減る。
「街に出る!」
もちろん心が塞いでいるときに身体を元気にさせる気持ちも起きにくい。その絶望から救うのが、希望。そしてその希望は外に出ることで出くわす可能性がある。そして身体が動くことで心も軽くなる。
デカルトへの反逆
文系理系の区別の根拠はデカルトにある。
文系:人間の精神活動を媒介にしている。歴史、芸術、思想。ここから文化が生まれた。
理系:人間の精神が関わっていない物の世界が「自然」。これが科学。
精神VS物体、心VS身体 という対立項を超越しようとした哲人がメルロポンティである。
どこに基礎があるかと言うと、「身体」であると。前述した如く身体は交換、一般式から成り立つもので、物質ではないのだ。デカルト時代は、他者、偶然性、身体はタブー。これらを彼は中心概念に据え直し、世界観を再構築しようとした人。
ポンティ書斎のデスクで読書中に心臓麻痺で突然世を去る。そして最後の読書がデカルトの「方法序説」だったという運命の皮肉がある。
ポイント
①モノと身体は同化する。これが魔術的関係である。
②身体は私と他者をつないでくれているメディアである。