東京大学総長南原繁 を考察する

南原繁は政治哲学者であり、最も有名な東京大学総長の一人です。後の日本の政治学を率いる丸山真男は南原の弟子でした。

フィヒテの政治哲学

「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています。もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら、この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって牛耳られることになるでしょう」『ドイツ国民に告ぐ』より。

そして、次のような趣旨を激烈に語っていく。 

私がこれから始める講演は、3年前の冬に行った『現代の特質』の続きだ。
 私は先の講演において我々の時代は世界史の第3期にあたり、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということに向かって突き進んだことを述べた。しかし同時にこれがために、利己心は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだと語った。
 これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。なぜドイツ人のためなのか。それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。
 我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。そのためには我々は「拡大された自己」を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
 この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。
 フィヒテの講演は、このあと新しい教育の提案に移っていく。それはドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学である。
その骨子は


(1)学校を、生徒が生み出す最初の社会秩序にするための「共同社会」にするべきだということ。


(2)教育は男女ともに同じ方法でおこなわれなければならないということ。
 

(3)学習と労働と身体が統一されるような教育こそが、とくに幼年期から必要であること。
 

(4)学校は「経済教育」をおこなう小さな「経済国家」のモデルであろうとするべきであること。
 

(5)真剣な宗教教育こそが「感性界」を可能世界にしていくはずだということ。
 

(6)すべての教育は国民教育でなければならず、したがってすべての教育はドイツ人に共通のドイツ語でなければならないということ。


新日本文化


 日本が戦争の嵐に着く進むさなか、南原は、第二次世界大戦終了直前に法学部長となり、大戦終了後の1945年12月に東大総長になりました。南原は、「新日本文化」を提唱します。彼は、日本には「人間意識」が欠けており「人間性理想」であったと言います。そこで主体的な人間革命による新たな国民精神の創造こそが新日本文化の創造、モラル国家日本の再生、そして犯した過ちへの贖罪であると語りました。
 南原は戦後日本が目指すべき方向を、「道義国家日本の建設」と考えたのです。その裏付けには、真・善・美・正義からなる文化諸価値が大切とする南原の哲学でした。「真の革命」は正義の実現を目指す「政治革命」と、「真理や人間価値」の確立を目指す「人間革命」との一致によってのみ、なし得るものなのです。


真理を求める


 南原は政治哲学者として理想と現実の狭間で絶えず問題を克服して理想に近づく努力をしてきた人です。例えば全面講和、永世中立を主張することで独立を確保しようとする南原と、米国を中心とする西側自由主義諸国との講和を選び結果、日本の独立を進めた「現実路線派」の時の総理大臣・吉田茂との対立に現れています。南原の取った立場は、現実は克服すべきもの、そして理想を求めるものとする政治哲学者としての強い信念から来るものでしょう。


彼は、東大総長を離任する際に、「真理は最後の勝利者である」とのメッセージを残しています。まさにプラトンが絶対価値を希求したかのように、政治哲学者として真理を追究し、理想を追い続けたのです。南原こそ、現代のプラトンとも言うべき人であると思うのです。

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