フリーランスの書籍翻訳者、日々の翻訳中に考えること
フリーランスで英日翻訳を始めて9年が過ぎた。
翻訳は楽しいけれど難しく苦しい。書籍の翻訳は何ヶ月もかかるので特にそう。
翻訳の草稿を見返しながら、けっこういい訳ができてる、と思う時もあれば、「すごく読みにくくてダメだなぁ」と感じてとことん修正モードに入る時もある。
言語・文化の違いがある以上「完璧」な翻訳など不可能なのだけれど、それでももちろん「より良い翻訳」を目指したい(その良さが「正確さ」「読みやすさ」「親しみやすさ」などのどこに主として向かうのかは場合による)。
とにかく届けることに意義がある:初期の訳書『性と愛の脳科学』と『なぜ科学はストーリーを必要としているのか』
ただ、たとえ最高の翻訳でなくても、少なくとも日本語圏の読者にその本を提示し、届けることには意義がある。
それを痛感するのは、初期の頃に訳した『性と愛の脳科学』(中央公論新社)と『なぜ科学はストーリーを必要としているのか』(慶應義塾大学出版会)を今もたくさんの方に読んでもらっていることから。
草稿には校正者の方に山のように指摘・修正のペンを入れていただいたし(お名前もお顔も存じ上げませんが、本当に感謝しています……)、
出来上がった本も後に読み返すと「うーむ…」と思うところがあり、増刷の折に修正しているのだが、
どちらの本もとにかく内容が面白い。なのに、2作とも原書(英語版)は私が出版社さんに翻訳企画を持ち込むまで日本でほとんど知られていなかった。
たとえ知られたとしても、日本語に翻訳されなかったら日本語圏でもごくわずかな数の人にしか読まれなかっただろう。
だから、自分の翻訳(訳し方も、自分を通して生成される訳文も)に「うぐぐ…」となりながらそれでも本を探し、企画を出し、訳し、ひっきりなしに調べ物をして正確性を上げ、訳文を読み返して直し、磨き、読みやすさ届けやすさを少しでも高めていく。
(そのおかげで今はかつてよりずいぶんと力がついたはず…)
いつになっても緊張と感謝
仕上がった訳稿を送る時にはいつもドキドキ。それから少し間が空いて、ゲラ(本になる前の校正用のページ)が届くとその確認修正モードに(他の仕事もしながらなので切り替えが大事)。
チェックは自分のできる範囲でしっかり、みっちり。その書き込みの朱字を、見知らぬオペレーターの方たちに読み取って修正してもらう(のだと思う…実際の作業を私が見ることはない)。本作りはとてもたくさんの人によって行われている。
訳書をどう届けるか
翻訳する本を選ぶ時、私は「誰彼構わずとにかく読んでほしい」と思って選ぶタイプではない。
「潜在的にこの本を求めている人がいるのでは」
「この本に出会って視界が開ける人がいるのでは」
…と感じ、その人に本を届けられたらと思う。
いざ本が出る時には済ました顔をしているけれど(読者のお邪魔にならないように!)、本当は緊張と不安でいっぱい。
本屋さんで棚に置いていただいているのを見れば大感謝、
SNSやweb記事で紹介していただいているのを見れば大感激、
新聞や雑誌の書評を目にしてはほっとする。
日本に住んでいなかった時に比べて(あるいは翻訳開始初期に比べて)「届いている」という手応えを直接得られる機会も増えた。
でも、翻訳する(そして、他の仕事も合わせて生活を維持していく)のに精一杯で、訳した本のことを読者の方にじっくり伝える場がなかなか作れなかった。
(「訳者あとがき」にはいろいろと書いているが、それは主に本を既に手にとってくださった方へのもの)
今の時代、新しく刊行される本は数えきれないほどある。たぶん過度に多くて、作り手も読み手も疲弊して無理が出ていると思う。
(↓こちらの「本のフェアトレード」のサイトも参考になる↓)
少し立ち止まって、本のテキスト(原文と訳文)と、その先にいる読者のみなさんと——文章などを通じて間接的に——つながる時間を増やしていけたらと思う。