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浮気症の人の審判

浮気症の人が悪いわけではない。
好きな人ができたら今までの人を排除したり、新しい好きな人を好きにならないようにするのは、秩序的であるけど、抑圧している。
そう、自分を抑圧している。

自分の中の好きなところを新しく発見していく事はいいと思う。
それとこれは違うという考えは、自分の中の好き嫌いがハッキリしている人かもしれない。
自分を嫌いになったり好きになったり不安定する人も怖い感じがする。

この世に来た時点で、自分自身と一生添い遂げると決意したのだから、途中で離婚する(自分が自分自身を殺す自殺)ような事にならずとも、時が来たら死ぬ(自分と自分自身が同意して死ぬ心中)ことになる。

自分の中の好きな部分と嫌いな部分があったりするのが強く、自分の中の嫌いな部分を排除する考え方、抑圧的にわざわざ嫌いにならなくても良いのではないだろうか。

こことここが好きだからと目移りする自分への浮気性みたいなもので良いし、嫌いなところも好きを増やしていけばいいだろう。

自分の中のだらしない部分などの嫌いな部分を、自分の中が総動員して助け合って、自分の中の全てを愛していく
そんな自分の中の愛あるリーダーならば、外へ向けても愛せる人になるだろう。
自分の中の足を引っ張るような部分がリーダーならば、外の誰かも足を引っ張るような人になるだろう。


自分の中のたくさんの部分を愛する浮気性な人こそ、健全な人だろう。
ヤリマンやヤリチンは不健全だ、確かにそうだが、何も下半身がそうなるからそうなるだけ。
心の中のヤリマンやヤリチンは、自分自身に向けた好きと嫌いに分けず、好きと好きと好きになるヤリマンやヤリチンでいいだろう。


この話は、決して自分の過去への贖罪ではない。
いやちょっとあるかも。
もうすぐ天変地異があるかもしれなくて、閻魔様に正当化する弁明の練習かもしれない。
過去の女を、おっと間違えた、過去の自分もいつまでも好きでいることが、未来の自分も好きであり、あの自分もこの自分も好きになる浮気性でいいと思いませんか?、閻魔様。



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