芸術家は時代のどこにいたのか(後編)
*本記事は2023年6月に某所で行った市民講座の原稿です。
ボードレールにおいて、その生活と詩の制作における方法論とは密接に結び付いています。自らの激しい内心を複雑なまま吐露することに主眼を置いていたロマン主義の詩の枠組みから脱し、明晰な視線で現実の有り様を事細かく把握しました。そうして自分個人に回収されない自律的な詩の世界を構成したことにより、近代的な詩の祖とされています。現実を事細かく把握するというのは、あるがままの諸物の姿を一つ一つ見詰めていくという意味ではありません。そうではなく、それらの間に実は知覚出来ない連関があるということ、諸物はそうした様々な関係性の中で意味を宿しているということを、ボードレールは明確に認識し、それを詩の原理として利用したのです。
ボードレールが日記として書き溜めていた文章の中には、次のような言葉がみられます。
ここには人間の二つの側面が簡潔な表現で写し取られていますが、これはとても個人的な態度を問題にしていると同時に、普遍的な事実を示してもいます。ボードレールはこのような万人に共感され得る心の動きを慎重な手つきで詩へと変化させます。詩はもはや詩人の苦悩や激情の率直な表現ではなく、読者と一体となって何かを感じる場そのものになったのです。その中でもボードレールが最重要と位置付けるものこそ、この上昇と下降の感覚で、それは言い換えれば理想と悪ということになります。19世紀も中頃になると、革命を導いていた熱情も時代の空気から段々と消え失せ、工業化の進んだ都市には暗く憂鬱な気配が潜むようになります。その倦怠 ennuiの中に身を置いたのがボードレールです。そこから苦しみが生まれます。苦しみを脱しようとする衝動や意識が、理想と悪という相反する二方向へと向かうのです。とは言え、1848年には当時の政体であった七月王政を打倒する二月革命が起こっており、このときはボードレールも武器を持って戦闘に参加しています。しかし、それはただ「反逆の本能を満足させるためだった」(注1)とも言います。ボードレールとは一体どんな人物だったのでしょうか。
20歳のときに一度親に遠方へ旅に出されますが、その船を途中で降り、数週間を過ごしてから逆方向の船に乗ってパリへと戻り、以降はこの都市でダンディスム dandysmeと呼ばれる生活態度を実践しながら暮らします。これは定義の難しい概念ですが、時間的・金銭的な余裕があり、他の者に追随するのではなく自分という存在を際立たせる、鋭い美的感覚を伴った男性の在り方を指します。こうした精神を徹底して保つということは一種の苦行に他なりませんでした。これはボードレールの特徴で、生活は基本的に苦痛に取り巻かれており、その彼方の死に憧れを抱くほどでした。この苦行を実践しつつ、酒や麻薬による陶酔も味わう暮らしの中で、ジャンヌ・デュヴァルを始めとして何人かの女性と深い関係を築きます。また、多くの芸術家と交流をして、美術批評家としても活躍しました。ボードレールが生涯で作り上げた詩集は殆ど『悪の華』一つだけですが、他に散文詩集(形式的な詩でなく散文によって書かれた作品を収めたもの)である『パリの憂愁』などもあります。
さて、『悪の華』には、ダンディスムの実践から始まる倦怠の日々の苦しみ、葡萄酒の幻惑、女性たちへの感情、都市の腐敗と移ろいやすさ、そして死に向かう意識など、ボードレールが生活の中で体験した事柄が詰め込まれています。詩の論理として、物事が互いに関連し合っており、世界はそうした結びつきの内にあるという「万物照応(コレスポンダンス) correspondances」の観念があります。この結び付きを表現することで、ある対象から、それをはるかに超える大きな意味を暗示させることが出来ます。こうした暗示の力は、今ある限りの場所、目の前の風景から、ずっと遠くの場所へと読者を連れ出します。倦怠からの脱出が基本的な目的として一貫していますが、それは上昇と下降の二つの道で異なります。上昇を取る場合、それは信仰や理想の道で、救済者として特定の女性が想定されていることもあり、ネルヴァル的であると言えます。しかしもう一方の下降、即ち悪の道は、堕落や陶酔、悪魔的な感情や不道徳であり、これを結局は救済と同等の役割を果たし得るものとして描き出したところに、ボードレールの発明があります。麻薬の効果について記した『人工天国』の中には、次のような一節があります。
ボードレールにとってはこのように、酒や麻薬に陶酔することは、ただ溺れるのでなく、普通にしていては耐え難い日常の外部へと旅をするための実験だったのです。しかしこの旅は、「自分の行先を知らない」ような性質のものです。どこかへ向かうという定まった目的がないため、この旅は死のイメージと重なり合います。『悪の華』は六つの詩群に分かれていますが、その最後の詩群が〈死〉であり、最後の詩が「旅」であることには、詩人の生と詩集全体に関わる象徴的な意味があるのです。一部を引用します。
「おお 子供っぽい脳みそたち!
いちばん重要なことを忘れぬように、
われらいたるところに見た、探しはせずとも、
宿命の梯子の頂から足下ろす処まで、
あの不滅な罪の 退屈な光景ばかりがあった。
〔…〕
おお 《死》よ、歳とった船長よ、時間だ! 錨を揚げよう!
この土地はいかにも退屈だから、おお 《死》よ! 出航しよう!
空と海とがインクの如く黒くとも、
おまえが知る われらの心は光に溢る!
おまえの毒をばわれらに注ぎ 溌溂な力に満たせ!
われらは、こんなにも脳を焼きつける この炎と共に、
深淵の底へと 潜ってゆきたいのだ、《地獄》なりと《天国》なりと、
構わぬではないか? 《未知なるもの》の底に 新しいものを探すため!
ここで「子供っぽい脳みそたち」と呼び掛けているのは、旅を夢見てやまない人の、向こう見ずで結果を知らない、湧き立つ気持ちのことを言っているのでしょう。こうした冒険の衝動に対して、続く詩句では、その期待は結局打ち砕かれ、どこへ至っても何ら変わらぬ倦怠の世界が待ち受けているだけだと忠告しています。天高くから地の底まで続く「宿命の梯子」は、こうした衝動を原動力に上昇と下降の旅路を幾度も歩んで来た詩人のいわば経験値を示すモチーフです。様々なかたちで行われて来たそうした試みは、たった一本の、天と地を結ぶ梯子の姿に収束します。そしてボードレールの詩の世界は、少なからず読者の経験する世界でもあるのだから、この梯子は人間の生きる営みそのものを表していると言うことも出来るのです。一つのところに留まっていることなど出来ない人間は、様々な理由からその場を脱出しようと試みますが、「死」に近付いて一歩引いた地点から眺めてみたとき、そうした行動の全ては一本の道筋でしかないのかもしれません。しかしそれでも、とボードレールは言うのです。生きている限り、倦怠から永遠に逃れることは出来ないのだとしても、だからこそ死の持つ力を借りることによって、人はやはり旅に出るのだと。
ところで、ボードレールは美術批評家でもありましたが、詩の分野でこうした革新が起きていたのと同様、絵画の領域でも19世紀には全く新たなうねりが次々と生じていました。ボードレールが称賛した画家は第一にドラクロワです。ドラクロワは古代ギリシャ・ローマの美術を絶対的な手本とする新古典主義に反抗し、鮮やかな画面で人間の感情の躍動などを表現するロマン主義の画家で、北アフリカへの旅の経験なども色彩やテーマに取り入れています。ボードレールはドラクロワに画家の死まで一貫して賛辞を送り続けましたが、時代の流れに伴い、後の世代の画家たちのことも支持しています。『オルナンの埋葬』でスキャンダルを起こしたクールベは写実主義の提唱者です。新古典主義のように理想化された美を描くのでも、ロマン主義のように歴史や物語などから題材を選ぶのでもなく、現実のありのままの光景を描いた作品は美術界を揺るがしました。ボードレールはクールベの反抗者たる姿に好感を覚えたようです。『悪の華』初版出版と同年の1855年に発表された『画家のアトリエ』という作品には詩人の姿が描き込まれています。写実主義が文学にも波及した運動であったことから、ボードレールは「写実主義者」と見做されることもありましたが、それは秩序の破壊者というのとほぼ同義でした。『悪の華』や、ボードレールと同年生まれの作家であるフローベールの『ボヴァリー夫人』が、社会風俗を乱すとして起訴されたことの裏には、こうした流れがありました。写実主義の更に次の世代であるマネやファンタン=ラトゥールもボードレールは好意的に評価しています。
ロマン主義から出発しつつもやがてそこを離れて新たな立場を取り、美術批評の分野でも活躍したという点で、作家・詩人のゴーティエはボードレールと重なります。ゴーティエはとりわけバレエに大きな関心を寄せました。当時のバレエはロマンティック・バレエと言い、非現実の世界の妖精たちや幻想の様子を描いたのが特徴です。ゴーティエは特にカルロッタ・グリジというダンサーに愛着を持ち、現代でも上演される人気作である『ジゼル』の台本をグリジの為に書いています。絵画の場合と違い、フランスのバレエの世界では技術的な進展はあっても、殆ど革新と呼べるものは起こりません。以降も依然としてロマンティック・バレエの作品が上演されていくのですが、その主眼は女性ダンサーを鑑賞することにありました。ゴーティエは小説作品の中で彫像に喩えられるような完璧な美を称揚しますが、舞台上のダンサーたちにも、何より完璧な外見を求めていました。ロマンティック・バレエの全盛期であったこの時代、グリジの他にも、マリー・タリオーニとファニー・エルスラーを始めとして、個性的な魅力を備えた女性ダンサーが次々と登場し、ファンを獲得していました。一方、男性ダンサーはその引き立て役の位置に甘んじるようになります。世紀後半にバレエの人気が次第に低迷していくにつれて、この構造は強化されていくことになります。
さて、純粋詩の話に戻りましょう。ボードレールの詩は、その哲学的・理知的な面をマラルメが、音楽的・抒情的な面をヴェルレーヌが、錯乱的・破壊的な面をランボーが受け継いだと言われますが、純粋詩の流れはマラルメが発展させることになります。「純粋詩」という言葉は、ここでは外界からの影響によって、外界に基づいて書かれたものではなく、作品に内在する言葉同士の意味や効果によって、いわば作品の中から作り上げられるような詩のことを指すと考えましょう。こういった詩を徹底的に考え抜き、厳密なかたちで実現させようとしたのがマラルメです。マラルメの詩学がよく表れていると言われるのが、通称で「-yxのソネ」と呼ばれる作品です。ここではその原型となった「ソネ自身の寓意であるソネ」という詩をみてみたいと思います。
是認者たる夜が 縞瑪瑙たちに火を灯す
聖火の使なる純粋な《罪》に触れた その爪で、
暮れ方の《不死鳥》に 《夕べ》は置き去られ
その死灰とて 納むべきアンフォラは無し
華卓子の上に、漆黒の《居間》に プティックス、
よく響く空洞の 並外れた吹き抜け路は無く、
なぜなら 《主人》は冥府の河の 水を汲みに
《夢》の誇り そのすべての品を持って旅立ったから。
そして開かれたままの 《北》の十字窓に捉えられ、
不吉な ひとつの黄金の輝き 繊麗な額縁に煽りたてる
ひとりの神のある争い ニンフを鏡面の 次第に曇り深き
内部へ運び去ろうと企む縁飾りは 不在へと続く扉、
そうだとしても鏡の上に、未だ静かに映ゆるのは
瞬きのしるし 散らばって動かぬ 七重奏。
ここに描かれているのは、一つの部屋の風景です。しかし、その中で視線が段々と移っていくことにより、ある物語のようなものが浮かび上がります。また、この部屋はかなり独特な雰囲気を放っているようにみえます。たとえばアンフォラはギリシャの壺だし、しかもそれは骨壺として登場しています。プテッィクスという謎の語があることでこの詩は一層の不思議さを獲得しているのですが、一応この言葉にもギリシャ語で法螺貝というような意味があり、少なくとも空洞を持ったオブジェであるようです。華卓子(コンソール)というのは壁に接したテーブルで、こうしたオブジェを飾るのに用いられます。さて、この詩について、マラルメは友人であるアンリ・カザリスに宛てた手紙の中で次のように説明しています。
整理をすると、特に重要なのは次の三か所でしょうか。まず、この詩の意味が「語自体に内在する蜃気楼によって喚起される」ということで、これはボードレールが発明した、「万物照応」する事物たちによる意味の暗示という手法の発展形であると言えます。「アンフォラ」や「プティックス」という語は、描写される外面的な特徴だけに留まらない、もっと大きな意味を暗示しながら、相互に結び付いています。次に、この部屋の「中にはだれもいない」という点。これは、詩人は「非個人的 impersonnel」な状態に達することでより純粋な詩を書くことが出来るというマラルメの詩学を象徴しています。個人的な状態における詩は、たとえばロマン主義の詩です。マラルメは個人の感情よりも言葉の力に着目したため、「非個人的」であることをとりわけ重要視したのです。だから、この詩からは《主人》である詩人が消え去っています。最後に、鏡に映るのが大熊座の星々であり、それが「世界に見棄てられたこの家を、ひとり天にだけ繋いでいる」という点。部屋の中をゆっくりと移動して来た視線は、最後に鏡の前へと導かれます。鏡には色々なものが映ります。これまでにみて来た不思議なオブジェや家具たち――それらはより大きな意味を暗示していますが、そうした意味までも含めて――全てが、この鏡に映っていると考えることが出来ます。そしてその鏡の表面には、七重奏という言葉が示すように、大熊座の一部である北斗七星が輝いているのです。つまり、部屋のあらゆるものを映す鏡は、同時に天へと繋がる媒介物でもあるということになります。詩の中に散りばめられたあらゆる意味や存在が、一つに混ぜ合わされることなく、対立は対立のまま、けれど直接に、天へと繋がっている。このような徹底された「純粋詩」は、「一」なるものによる救済を夢見たネルヴァルとは全く違うかたちで、崇高な何かを表現することに成功していると言えるのではないでしょうか。マラルメは詩や言葉について絶えず悩み続け、自己の深みまで潜っていき、逆に「非個人的」な状態に到達して純粋な詩を作ります。それはどこまでも深い内面の冒険と言えるでしょう。
マラルメは週に一度、自宅に親しい人々を招いて芸術論などを交わし合う火曜会という集まりを主宰していました。マラルメの「純粋詩」の詩学は、この火曜会の参加者で、詩人に大きな影響を受けたと言えるゴーガンの絵画の中にも見出すことが出来ると私は考えています。1892年にタヒチで描かれた『アリイ・マタモエ(王の死)』という作品を見てください。前方に大きく描かれている首は、タイトルに従えば王のものです。実際、制作の前年にタヒチの最後の王ポマレ5世はこの世を去っています。しかし、フランスを離れ一人タヒチへと旅立った芸術の殉教者としての自分自身を画家が生首というイメージに託したとも考えられます。自分の悲劇的な運命を何らかの痛ましいイメージに重ね合わせて表現することは当時の多くの画家が行っていますし、ゴーガンには生首をそうした文脈で用いた作例もあります。そうすると、画家の「死」を意味するこの首は、「主人」が作品から立ち去ること、つまり「非個人的」な状態が実現されることを象徴していると言えます。画面の奥側に注目すると、何人かの不思議な人物たちが見えます。ゴーガンは友人に宛てた手紙の中でこれらの人々は皆女性であると言っていますが、このことには深い意味があると思います。特にタヒチ時代において、ゴーガンには一種の、女性との一体化の願望が見出せます。西洋人であり男性である自分が、女性たちと一体になることによって初めて、異郷の人々の暮らしの中に溶け込めるようになるというような意識が、ゴーガンにはあるように思えるのです。これは「非個人的」な状態になることと不可分の体験です。自分が、自分を規定する西洋人や男性という要素から解き放たれる瞬間が、女性を描くときのゴーガンにはあったのではないでしょうか。ゴーガンは気に入ったポーズやモチーフを何度も描くのですが、この作品に登場する女性たちもそうした気に入りのモチーフたちです。そのため、それぞれに異なる大きな暗示的意味が含まれています。女性であるこれらの人物たちは、ある意味で画家の対立者です。しかし、「純粋詩」の世界では、対立は対立のままで天へと繋がることが出来るのでした。ゴーガンの作品にはこのように、対立する要素を散りばめることによって、その関係性から醸し出される力を閉じ込めているようなところがあります。それらの一種の融合を夢見ていたことは確かです。タヒチ時代にはキリスト教と現地の信仰など、異なる宗教的要素を一つのモチーフや空間に重ね合わせる試みがよくみられます。これはまさにネルヴァルが行ったような宗教混淆(サンクレティスム)ですし、現地の信仰を扱った作品では女性神ヒナと男性神テファツが至近距離で向かい合うというテーマも好んで用いています。こうした対立要素が結び付く、宗教的で神秘的な体験に画家は関心を抱き続けますが、それは救済として訪れるようなものではなく、対立要素それ自体によって、内側から達成されるような性質の状態なのです。
ゴーガンは印象派というグループから出発して全く新しい方向へと舵を切った画家であり、何重の意味でも冒険者でした。ゴーガンの影響を強く受けて、ポール・セリュジェを中心に結成されたのがナビ派というグループです。ナビ派は主に画面上の色彩の用い方や装飾性をゴーガンから受け継ぎますが、その一人であるジョルジュ・ラコンブは彫刻作品の制作も行っており、ゴーガンの彫刻作品の神秘性を継承している点で特殊です。しかしラコンブの場合、まさに『イシス』という作品を作っていることからも分かるように、対立要素の関係性というよりは、それらの調和した「一」なる世界そのものの表現に惹かれていたように思われます。ナビというのはヘブライ語で預言者を意味する言葉ですが、かれらにこの名前を付けたのはマラルメの古くからの友人であり、先程の手紙の相手である詩人のアンリ・カザリスです。こうしたことからも、文学と美術の密接な繋がりを確認することが出来ます。
ところで、マラルメが「非個人的」という概念をバレエに関する評論の中でも用いていることは興味深いです。マラルメは舞台上でダンサーたちが織り成す風景に星座のような美を感じており、「踊る存在は紋章以外のものではなく、個人としての何者かでは決してない」(注2)と言っています。一人一人のダンサーは何かを暗示する主体であり、踊りによって、それらが結びつきあって紋章をかたちづくるという見方です。詩人ならではで非常に面白いと思いますが、ここで論じられているダンサーはやはり前提として女性です。ロマンティック・バレエの誕生以降、バレエは男性が女性を見るという構図が分かりやすく表れる芸術となっていました。ドガが劇場のダンサーたちをテーマにした作品に、パトロンとして彼女たちと個人的な関係を結ぼうとする怪しげな男性の姿が描き込まれていることは比較的よく知られています。当時、オペラ座には年間予約会員という制度があり、「アボネ」と呼ばれる会員たちは特典としてフォワイエ・ド・ラ・ダンスという舞台袖の空間に入ることが許されていました。バレエの人気が低迷していく中で、こうしたパトロンたちは幅を利かすようになります。ドガやマラルメのようなバレエ愛好家ももちろんいましたが、劇場の舞台袖では愛人契約も行われ、腐敗の雰囲気が満ちていました。
一方の絵画では華々しい革新が続く中、20世紀を迎えます。ゴーガンやナビ派の表現と新印象派と呼ばれる人々の技法に影響を受けた、マティスやドラン、ヴラマンクらの、派手な色彩で画面を埋め尽くすような激しく奔放な作品たちは、1905年にまとめて展示された際に、批評家から「フォーヴ(野獣)の檻の中にいるようだ」と評価されました。かれらのこの時期の作品をフォーヴィスムと言いますが、運動として長続きするようなものではなく、それぞれ別の新たな道に分かれていくことになります。19世紀末から20世紀初頭にかけてのこうした芸術や文化の発展は、後に「ベル・エポック(よき時代)」と懐かしまれることになりますが、その背後には植民地政策があります。世界各地に植民地を持つことによって都市は繁栄します。パリでは万博や植民地博覧会が相次いで開かれ、植民地の人々や文化を、文明の進歩の過程において遅れたものであると率直に位置付けました。20世紀の前半には、こうして遅れた文化の産物として持ち込まれるアフリカやオセアニアの美術に、自分たちとは全く異なる驚くべき性質を肯定的に発見していくという流れがあります。
そんな中、1909年にバレエ界を根底からひっくり返す事件が起こります。バレエ・リュスの登場です。フランスで幻想的な物語を基本とするロマンティック・バレエが衰退の一途を辿っていた頃、ロシアでは物語ではなく踊りそのものに重点を置く新たな潮流が生まれていました。私たちがクラシック・バレエと呼ぶ作品はこのようにしてロシアで誕生しています。このロシアで高い技術を習得していたダンサーたちを休暇のシーズンに引き連れ、パリのシャトレ座で歴史的な公演を行ったのがディアギレフというプロデューサーです。ディアギレフは過去にロシアで『芸術世界』という美術関連の雑誌を刊行していたこともあり、周囲には最先端の芸術家たちによるグループが形成されていました。この公演はこうしたロシアの芸術を紹介する目的でなされたものでしたが、それ以上の大きな成果を得ることになりました。バレエ・リュスは衝撃と共に歓迎され、これから20年間に亘って全く新しいオリジナルのバレエを生み出し続けることになるのです。まず、この最初のシーズンで上演された『ポロヴェツ人の踊り』を観てみましょう。
『ポロヴェツ人の踊り』はプログラムでは二番目の作品ですが、フランスの観客たちを最初に大きく驚かせたのは男性ダンサーたちによるこの荒々しい群舞だったことでしょう。バレエは女性ダンサーに注目して鑑賞するものであるという当時の通念はかれらの登場によって完全に打ち砕かれたのです。その一方で、プログラムの最後にある『クレオパトラ』という作品では、イダ・ルビンシュタインの演じるクレオパトラが、まさにその身体によって強烈な存在感を発揮します。バレエ・リュスは男性ダンサーの復権を果たしただけでなく、身体を用いた表現の仕方においても新しかったのです。
しかし、バレエ・リュスが最も革新的であったのは、ディアギレフが美術・音楽・振り付け・台本のそれぞれに高い仕上がりを求め、「総合芸術」としてのバレエを作り上げた点です。衣装や舞台背景の美術は初めディアギレフが連れて来たロシアの画家たちが担当しますが、やがてフランスの前衛画家たちにも制作を依頼するようになります。音楽や台本にしても同じです。1917年の作品『パラード』では、美術をピカソ、台本をコクトー、音楽をサティが務めます。ピカソは1900年に初めてパリにやって来て、1907年の『アヴィニョンの娘』を皮切りに、パリでキュビスムと呼ばれる画風を発展させていました。戦争が終わった1919年にはドランが『風変わりな店』という作品を担当します。従軍して死の観念に憑りつかれていたドランは、バレエの世界に生の楽しさを見出したといいます。ドランの参加をきっかけにしてフランスの画家たちとの繋がりはより一層密接なものとなり、翌年にはマティスが参加しています。二つの大戦に挟まれた1920年代を「レザネフォル(狂騒の時代)」と言います。この頃、パリには外国出身の画家たちが多く集まっており、エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれたかれらは、各々が独自の画風を追い求めながら、共同生活を行ったり、カフェで盛んに交流をしたりしました。
バレエ・リュスの方向性は振付家の交代もあって何度か変わっていますが、その大きなものとしてエキゾティシズム路線からパリ最新の流行路線への変更を挙げることが出来ます。『ポロヴェツ人の踊り』は『イーゴリ公』というロシアのオペラの一幕をアレンジしたもので、中央アジアの民族の踊りを表現しており、異国性に満ちていました。『クレオパトラ』では、この異国性が官能性と結び付けられることによってより一層の衝撃を与えます。こうしたエグゾティシズム路線は、『千夜一夜物語』を下敷きにした翌年の『シェヘラザード』によって一つの頂点を迎えます。1920年代、美術の担当がロシアの画家たちからフランスの画家たちへと移行するのに呼応し、バレエ・リュスはこうした異国趣味を脱却しています。1924年の『青列車』ではシャネルが衣装を担当しており、服装のスタイルにおいても女性たちがより自由な在り方を選択し実現していった時代の流れを象徴しています。ゲーテに始まる「永遠の女性」という幻想や、官能的な異国女性の幻想は、こうした変化の中で少しずつ解体されていくとも言えます。しかしその過程は複雑で、1925年にパリでデビューしたジャズ・ダンサーのジョゼフィン・ベイカーは、黒人女性としての自分の演出と、それを見に来る観客の視線の間で自己表現を続けますし、マティスは南仏ニースのアトリエでモデルの女性たちに異国の衣装を着せた「オダリスク」と呼ばれるテーマを描き続けます。マティスは1928年にこのテーマを離れますが、その後の表現を方向づけることになったのは1930年のタヒチ旅行でした。ゴーガンの記憶を保つタヒチで輝かしい自然と触れ合い、マティスは生命の躍動するような人物表現へと移行するのです。このように、二つの大戦に挟まれた時期には、外国や、男性から見た女性という「他者」のイメージが、様々な相において揺らぎながら前面化し、反動を伴いつつ、複雑に刷新されていきました。芸術家たちは独自の感性と主題を頼りにそれぞれの道を開拓していきます。その一方で、エコール・ド・パリの画家たちやベイカーなど、外国からも様々な表現者が集まっていました。こうして個別の冒険が全面的に混ざり合い、時代のうねりを作り上げていったのです。
戦後、1949年に刊行された『第二の性』の中で、哲学者ボーヴォワールは「永遠の女性」という言葉を取り上げて、「女」はこのような定まったイメージによって説明され得る存在ではないが、「女」を「他者」化する視線によって、不合理な認識をされているということを指摘します。今ある自分の状態から抜け出して、別の新たな存在になろうとする精神性を「超越」と呼びますが、これは男性的な資質であるという考えが、それまでの哲学や科学には漠然としたかたちで根付いていました。ボーヴォワールはこれを真っ向から否定し、自由への「超越」に男女の性差はないということを証明します。私たちは社会的な空気や枠組み、他の人から向けられる視線によって、様々な制限を受けていますが、そうした制限を取り払ってより自由で個人的な地点へと「超越」していく冒険の力は、全ての人に宿っているのだとボーヴォワールは言っているのではないでしょうか。
1950年のラジオ・インタビューで、詩人ブルトンはゴーガンの大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』について、このように語っています。
それぞれの置かれた状況、重力を持った中心から脱出して、新たなものを探す冒険は、往々にして何らかの神秘の中に自分を位置付けていく旅路です。そうして広がった孤独な世界は、時代の流れによって乗り越えられるようなものでも、解き明かされるものでもないでしょう。『われわれはどこから来たのか』という問いに、いつか答えが与えられるということはありません。個人の冒険は、時代の軛を逃れるものでありながら、結果として時代を作り上げていくことになります。私たちに知ることが出来るのは、「芸術家は時代のどこにいたのか」という問いの、暫定的な答えだけなのです。
(注1)岩切正一郎「奇妙な友愛的平等」『ボードレール 詩と芸術』、水声社、2023、p.213. ただし元の出典はClaude Pichois, Jean Ziegler, Baudelaire, Julliard, 1987, p.257と引用元の注にある。
(注2)渡辺守章編『舞踊評論 ゴーチエ/マラルメ/ヴァレリー』、新書館、1994、p.109
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