Lettres te miti

運営者はポール・ゴーガンとフランス文学を専門にしている大学院生です(M2)

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最近の記事

「暫時は滝に籠るや夏の初」にみる芭蕉の自然観

 表題において掲げた句は、松尾芭蕉『おくのほそ道』の序盤、日光の段に含まれるものである。元禄二年(1689年)の旧暦4月1日、日光山を詣でた芭蕉は、山を更に登り、裏見の滝と呼ばれる滝を見物している。当該箇所は以下の通りである。  さて、ここで句中に用いられている夏という語は、禅宗において僧が九十日の間寺院に籠り、修行をして過ごす夏安居のことを指している。この句に関しては、採録されなかった「時鳥うらみの滝のうら表」「うら見せて涼しき滝の心哉」の二句の存在が明らかになっているこ

    • 共に泣き歌うミューズ―モーパッサン「最初の閃光」論

       詩人が想いを寄せる相手を様々なかたちで作品の中に登場させる例は枚挙に暇がないが、その内でもとりわけ、実際には詩人と極めて近い距離にいるとは限らない不在の人物を想像において主題とするとき、その姿や振る舞い、存在が言葉によって象られていく一方で、そうした全ては移ろいゆく詩人の想像力が生み出し続ける幻影に他ならないため、幻影と戯れる詩人の自意識も必然的に揺るがされるという特徴がみられる。こうして自意識を揺るがされつつも詩を書き連ねるという営為によって、作品は詩作のスタイル、すなわ

      • シュペルヴィエルにおける詩人の死と海の表象

         ジュール・シュペルヴィエル(1884-1960)の作品を概観したとき、海は重要なモチーフであり続けるのみに留まらず、作品の中でポエジーが何らかの変化や効果を生ぜしめる場、或いは、そうしたポエジーそのものとも重ねられる生成する運動体として、各場合に様々な意味を与えられている。同様に、不眠や心臓病を背景に持つ詩人の身体と、その終焉である死も、モチーフとして、ポエジーの場として、或いはポエジーそのものとして、決定的に重要な役割をたえず担っている。ここでは詩人中期の詩集『世界の寓話

        • 芸術家は時代のどこにいたのか(後編)

          *本記事は2023年6月に某所で行った市民講座の原稿です。  ボードレールにおいて、その生活と詩の制作における方法論とは密接に結び付いています。自らの激しい内心を複雑なまま吐露することに主眼を置いていたロマン主義の詩の枠組みから脱し、明晰な視線で現実の有り様を事細かく把握しました。そうして自分個人に回収されない自律的な詩の世界を構成したことにより、近代的な詩の祖とされています。現実を事細かく把握するというのは、あるがままの諸物の姿を一つ一つ見詰めていくという意味ではありませ

          芸術家は時代のどこにいたのか(前編)

          *本記事は2023年6月に某所で行った市民講座の原稿です。  芸術家は時代のどこにいたのか? こう問うことは芸術家を私たちの視線から引き離すことでもあり、同時に、不思議な親近感をもたらすことにもなり得ます。かれらの生きた時代は私たちが今日生きているものとは異なりますし、歴史にはこうしたそれぞれの時代を分かつ大きな出来事が幾つも記録されているように思われます。しかし、人間を取り巻く様々な要因や矛盾、思考上の問題といったものは、こうした歴史の区分によらず、はるか昔から私たちに引

          芸術家は時代のどこにいたのか(前編)