稲穂で海で風で そして終わりのない文章だった人
詩人 新川和江さんが旅立たれた。
95歳だった。
昨日は日中、仕事に手間取り、夜になってからボランティアの仕事、そして、そのあとも夜遅くまで期限のあるやらなくてはならないことを済ませた。途中明日にしようかなと気持ちが怯んだし、目もぼやけていたけれど、やってしまうことの効用を思いなんとかやり遂げ、珍しく6時間ぐっすり眠った。
そして今朝、かの人の訃報に触れた。
昨日色々終わらせていてよかった、と思った。
いま、新川和江さんを思う時間を作ることができたから。
詩人と名乗るようになるまで、私はただの私のままで25年以上詩を書き続けてきた。詩人と名乗る必要はなかったし、逆に詩人と名乗りたかったら名乗ったってよかったのだけれど、あまりそこには関心がなかった。ただなんだろう、書いていた。書くのが当たり前になっていた。
一方で、好きな詩人は誰かと聞かれて、すっと澱みなく躊躇いなく答えられるのはずっと八木重吉だけだった。
好きな詩はたくさんある。ふっと頭に浮かぶ詩もある。
金子みすゞも立原道造も草野心平も、石垣りんも。わたしのたくさんの仲間たちも。みんなすごいなと思う。心も震える。
そしてある日、遅ればせながら、新川和江さんの
「わたしを束ねないで」
に出会った。このワンフレーズがどれだけ胸に響いたかわからない。そうだ、わたしは束ねられたくなかったんだ、と言葉がこだまし続けた。新川和江さんの詩集にある詩のどれもこれもが胸の奥にしんと沈み込んで柔らかく光を放つようだった。
わたしを止めないで、わたしを注がないで、わたしを名付けないでと続いていき、として、最終連はこう始まる。
わたしを区切らないで
そして、わたしは終わりのない文章、なのだと。
自分の心から生まれた言葉を綴り、誰かの心に届く。それでも束ねられたりしない。どこまでもわたしのままで。どの作品も、それでいいんだ、と伝えてくる。
新川和江さんは逝ってしまった。けれど、彼女は稲穂で、海で、風で、終わりのない文章なのだから、消えてなくならない。わたしの傍にこの詩集がある限り。
わたしも生きている間に、一作でいいから、この「わたしを束ねないで」のような詩を書いてみたい。きっといつか書けるような気がする。だって、わたしも終わりのない文章だから。