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ショートショート「本を渡す男」
男には心をふるいにかける
そんな時間が必要なんだ
これが言いたいのかな?
蒼は口数が少ない。
少し変わった人だ。
小難しい本をいつも読んでいて
時々、それを私に渡してくる。
これを読んで
僕の気持ちを読み取れ
っていう意味なんだろうなと
由子はいつも勝手にそう思っていた。
そんな彼に渡された本の一節が
目に飛び込んできてくっきりと
残像を残している。
男には心をふるいにかける
時間が必要なんだ
**
そもそも由子は自分が蒼の彼女なのかどうか、よくわからないでいた。彼は何も言わないけれど、デートをするし、電話もする、キスもすれば、抱きしめ合う。これを彼女と言わずしてなんていうんだろうか。でも、告白されたわけではない。ただ、本を渡されるだけだ。
親友の紅子は捲し立てるように
そりゃタチが悪いね
というんだけれど、そのタチの悪さが由子には今ひとつピンっと来ないから、きっとまたさらにタチが悪いんだろう。タチが悪いのタチってイタチかな、なんて馬鹿なことを考えて、クフフ、と由子は笑ってしまう。
**
そんなある日のことだった。突然、蒼に本社への転勤の辞令がおりた。呑気な由子もこれには動揺し、どうしていいかわからない。転勤前にデートに誘われた時、いよいよ何か、口頭にて今後の私たちについての発言があるのか、と期待は高まる。
どどどどうしよう
聞くべきかな、私から。
そう、由子はこういう時、積極性のかけらも持ち合わせていない。なんて言ったって、タチが悪いをイタチが悪いと変換して一人で笑っているような女だから。
サクサクと野原を散歩しながら、辿り着いた見晴らしの良い丘の上で、蒼がようやく口を開いた。
この本読んで。
これが僕の気持ちだから。
**
由子は感動した。だって、蒼がこれが僕の気持ちだから、なんていうことは初めてだったから。今まで自分で勝手に思い込んで汲み取ろうとしてきたけれど、やっぱりそれでよかったんだとホッとしたし、本当に汲み取っていいのかと思ったらやたら張り切ってしまう。
なのに、読んでも読んでもどうしようもなくわからない。読んでも読んでも、文字が逃げていくように、訳がわからない。イタチどころではなくて、これじゃあ、葉っぱを頭に乗せてドロンパっといなくなるタヌキじゃないか、と呟きながら、由子の葛藤は続いていく。
**
「愛するということ」エーリッヒ=フロム
愛ってついているからってどうして浮かれちゃったんだろう、この男の気持ちを掴み取れたなんて、わかる日が来るとは思えない、なんでも話せる男を見つけよう、由子自身がたぬきになろうと決めたのはそれからひと月ほどしてからのことだった。