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巨匠は何を考え何を遺したか

12月の読書記録を書いた際に一冊だけ追記したいと書いた。それが『ル・コルビュジエ』という建築界の巨匠である。

日本には彼の作品が上野にある、言わずと知れた名建築『国立西洋美術館』である。

写真1
写真2
写真3
写真4

ル・コルビュジエの意匠を引き継げなかった建築

上野駅から直線上に歩くと右手に個性的なシルエットでインパクトを与える建築物が見える。国立西洋美術館というが僕は美術館自体が美術品であることを言いたい。

写真1から分かるように広々とした庭に箱型のRC造の建築物が現れる。そして入り口の境目がなく歩けばいつの間にか中にいる。外の空間と中の空間が一体化され建築物という感覚をなくしコミュニティとしての役割を持っている。

その点、建築物を支えている柱が印象的になるはずだがあくまでも建築物を支えるモノとしての役割を担っており、パルテノン神殿(イオニア式)や日本の三井本館(コリント式)に見られるような柱頭部の凝ったデザインはない。

そして写真3、写真4に見られるような大きなガラス開口と

写真5

RC造の階段は建築物のもつ立体のエレメントを印象的にする。この階段の印象は日本的な感性により近く芸術家としての顔もあったル・コルビュジエのピュリスム的な印象を受ける。これはキュビズム的な物事の真髄を描くようなモノでは無く、あくまでもモノとして確立されている存在に対し感情や哲学的概念を表していくような組み合わせを持っている。

写真では少し見にくいのだが、台形を反対にしたような階段を支える柱があるのだが建築好きならご存知の通りユニテ・ダビシオンの柱と全く同じデザインが施されている。

ユニテ・ダビシオンは荒々しい剥き出しのコンクリートがブリーズ・ソレイユによって隈取りされた武骨なマッスである。

この大きな開口に対して平行線上に設置された柱は優雅とは言えないがユニテ・ダビシオンと同じ年に完成したレヴァー・ハウスのような軽快で単調なハコとは全く違う躯体がある。

このユニテ・ダビシオンは正にル・コルビュジエの哲学を凝縮させた完成造と言っていい。既に完成されたサヴォア邸はコルビュジエの考えるコンクリートの自由な表現ではなく、前近代的にレンガを積んだ壁を白くプラスターで仕上げた建築物にすぎない。当時のサヴォア邸を最先端の機械のイメージだった事とは驚くべきほど対照的なのである。

さらにル・コルビュジエの提唱する5原則と呼ばれる

「ピロティ(空間)」
「自由な平面」
「自由な立体」
「水平連続窓」
「屋上庭園」

はユニテ・ダビシオンも受け継いでいる。その中でもユニテ・ダビシオンで特徴的なのが屋上庭園の存在である。ここはアクロポリスとしての文化と共同体のコミュニティ的な意識を真にモニュメンタルにしている。

屋上に設置されるアゴラは八束はじめ氏の『ル・コルビュジエ』で「際儀性」と表現されているが、実際にユニテ・ダビシオンの屋上庭園で開催されるイベントには神への鑽仰の儀式がったに違いない。

しかし日本の国立西洋美術館には5原則の「屋上庭園」がない。以前は屋上庭園が一般公開されていたのだが安全上、建築物の劣化の進行を早めるとして撤去されてしまった。よって今の国立西洋美術館はコルビュジエの意匠は引き継げていない。

さらにはラ・トゥーレットの僧院で見られるような影、チャンディガールの総督公邸で見られる影といった影と光の連続性は、その土地の風土や宗教、建物の目的性によって大きく変わるのだが、国立西洋美術館の光と影は人工的に操作されている。

以前までは窓から差し込む光が中の美術品をより神聖な調和の取れた空間を作っていた。しかし、絵画類の日焼けによる変色を考慮して人工の光灯に変更されている。

では何故、ここまで国立西洋美術館はル・コルビュジエの意匠に沿った建築では無くなってしまったのか。

それはル・コルビュジエという人物が人間だったことを意味していたのではないだろうか。1955年にコルビュジエは一度建設予定地だった日本に訪れている。期間は7日間とコルビュジエの意向を確認したに過ぎない時間だったと思われる。

それからコルビュジエの訪日は叶わず、悲しいことに完成を自分の目で見ることなく南フランスのリゾートハウスで海水浴中に心臓発作による溺死で亡くなってしまう。そのため国立西洋美術館は近くにある東京都立美術館の設計者である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって監修され1959年に開館した。

ここには想像力としてのル・コルビュジエ以上に生物学的な人間としてのル・コルビュジエの限界があったのだと思う。

イデオロギーとしての建築

コルビュジエの生きた時代は第二次世界大戦とアメリカとロシアによるイデオロギーの対立が激化していた。今でもアメリカと中国は対立的な構図で表現されることが多いが、グローバル的な目線で言えば中国とアメリカの対立はイデオロギー以上に経済的な敵対関係と言える。

そのイデオロギーの対立が激化する社会でル・コルビュジエは旧ソ連側の建築家として名を連ねることになる。

この時、ソ連側は社会主義思想のもと新しい住居、新しい共同体の模索に走ってた。そこで採用されたのが機能的でありユニテの基、共同体としてのピロティが存在しているようなモダニズム建築であった。

新しいイデオロギーが「輝く都市」を作るとして実際にセントロソユーズは建設された。3500人の収容できるオフィス、レストラン、講堂、劇場と一つの建物の中に一つの共同体を作り出そうと試みている。

スターリン政権下における建築の重要性は計り知れない。当時、アメリカの建築といえばレバー・ハウスが象徴するように会社ごとの文化、歴史が存在し個々にフリーダムにおける権利が付与されていた。そのため建築自体に同化性、政治的意図は反映されなかったと言える。
しかしソ連のように民族の集結、同化が必須となるイデオロギーでは建築は政治的エレメント、建築家の政治的関与は逃れることのできないものだった。

ソヴィエト・パレス

それを象徴するのがル・コルビュジエの設計したセントロソユーズ以上に政治的意図の影響が大きい「ソビエト・パレス」の存在である。

ソビエト・パレスは神話のバベルの塔を彷彿とさせる一種の「建築物の都市化」が創造されたものだった。1万5,000人と6,500人を収容できる2つの巨大なホールを持った空間は以前のアカデミックな建築物とは全く違う雰囲気を持っている。正に構造表現主義の最高傑作の生まれた瞬間であった。

実際に建築理論家のフォン・モース氏は「パレ・デ・ナシオンやセントロソユーズを思い浮かべてソヴィエト・パレスと見比べると、前の二つの計画は古典的でほとんどアカデミックに見える」とコメントを残している。

それもそのはず後方の棟に設置された巨大なパラボラ・アーチの吊り構造は前近代の建築を払拭する圧倒的なデザイン性がある。

以前のセントロ・ソユーズとは一線を画するデザインとブルジョワ的なデザインは新しい経済、政治の幕開けを待っていたかのように見える。

最終的には杭を埋めることはなく空想の都市として幕を閉じ、夢の「輝く都市」構想はソ連の崩壊と共に塵と化す。

意匠と現在

19世紀と20世紀を生きた巨匠は今では過去の人となってしまった。しかしル・コルビュジエという人物を評価する際、建物の先進的さ、アヴァンギャルドな構造は過去の遍歴、当時の背景を読み取らなくても理解できる。

唯一無二の建築家と誰もが感じるはずである。上野の国立西洋美術館も然り、世界にはコルビュジエの意匠が散りばめられイデオロギーの中心として共同体を形成している。

その意匠を引き継ぐ建築家は多くはないが新興国を中心に生まれていく。アメリカのエーロ・サーリネン、日本の丹下健三は共にコルビュジエのソヴィエト・パレスにおける円形の美、パタボラ・アーチの形式美に挑戦している。

なぜ新興国を中心とした発展があったのかというとヨーロッパを中心とするアカデミックであり古典派の建築が興隆していた地域ではアヴァンギャルドであり構造表現主義的なモダニズム建築は受け入れがたものであった。そのため新しい経済、新しい文化、主義を模索していた新興国にとってモダニズムとの相性は抜群だったと考えられる。

その中でも丹下健三氏はル・コルビュジエの意匠を真剣に引き継いている建物が多い。例えば香川県庁舎はル・コルビュジエのドミノ・システムにおける自由な平面、まさにRC造で建築されるラーメン構造である。

また、国立代々木競技場に至ってはコルビュジエの設計競技で提出されたソヴィエト・パレスのオマージュとも呼ぶべきデザインである。実際に丹下健三氏は高校時代のソヴィエト・パレスとの出会いから建築を志していることから国立代々木競技場は念願の作品であり人生最高の傑作だったのかもしれない。

国立代々木競技場は外観から分かるように柱に対して吊り構造を持っておりソヴィエト・パレスのようなパラボラ・アーチでは無いがメインケーブルを架け渡すように配置された柱の二重構造はコルビュジエの建築以上の構造表現主義を見せたと言っても過言ではない。

最後に

19世紀と20世紀の巨匠は21世紀の建築哲学に影響を与え新興国のイデオロギーに大きな影響を与えた。

最初に国立西洋美術館を「ピュリスム的」と表現したが、価値観の逆転として評価するならば印象派陣営におけるジェロームへの批判であり、サロンへの敵対心があったのかもしれない。印象派の評価はヨーロッパからニューヨークのブルジョワジーに高く買われるまで秘めたままであった。

その後、アカデミック作品のように神話、史実に基づいた形式的なアカデミック作品は廃れ感覚的、自由な描写、背景、色彩を中心に描かれ画家ごとにファサードが全く異なる美術作品が世界中のオークションでブルジョワジーによって高値で取引される商品となった。

しかし、印象派というのは当初、プロレタリアートのための美術でありアカデミーの批判から始まっている。これが印象派を推し進めた画家の望む美術社会の結末だったのかは想像に足らないが建築も同じように当初の意匠、背景にある哲学、政治的圧力とは全く違った角度で評価されているかもしれない。

だが、ル・コルビュジエという巨匠が遺した作品が今でも人々のイデオロギーに影響を与えていることは紛れもない事実なのである。

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