赤瀬川源平『名画読本』(後編)
前編ではモネ、ロートレック、セザンヌ、ゴッホの名画を、視点を決めて、別の名画と比較しながら見てみました。
後編では、ダ・ヴィンチ、フェルメールの作品から、人間を描く事について考え、最終的にルノワールとアングルの作品から、「名画」の定義について考えようと思います。
聖なる存在を、人間の姿に描くという事。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』
厳密には、聖アンナも聖母マリアも幼子イエスも人間。でもこの絵は、イメージとしての聖アンナと聖母子なので、光輪こそ描かれていないけど、聖なる存在として描かれていると考えるべきだろう。
実際、見た感じからしてそうだ。老母のはずの聖アンナも、聖母マリアとそんなに変わらない姿。というか、絵面的には聖アンナと聖母マリアは、合体しているように見える。聖母マリアが、スタンド「聖アンナ」を発動しているというか、聖アンナの子宮から、聖母マリアが出現しているというか。存在を共有している二人は、さらに幼子イエスへの眼差しも重ね合わせて、その精神も一つである事を示している。
父と子と精霊ならぬ、母と娘と孫の三位一体か。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、人体解剖までする、徹底的な観察と理論で、リアリズムを追求した芸術家と言われるが、時に、それをこんな風に崩してくるのだ。
自由自在に歪めたり崩したりできるほど、リアリズムを使いこなし、リアリズムを越えた存在を描き出す。
宇宙飛行士には、地上に降りてから聖職者になる者が多いと言う。ダヴィンチもやはり、リアリズムを追求したことで、リアリズムを越えた存在を見たのかもしれない。
フェルメール『アトリエ』
描かれているのは、月桂冠を被り、ラッパと書物を手にした女性。音楽あるいは文学を擬人化した女性の絵を描いているのかな? 古代ギリシャ美術の頃から、芸術の各ジャンルを擬人化する事は行われていたのだけど、十七世紀オランダはどうだったのだろう? プロテスタントでは、聖母や聖人は認められないため、描かれなかった。しかし、レンブラントが妻を花の神フローラの装いで描いたように、神聖なる者を求める気持ちは捨てられなかった。それで、この絵の画家が描いているような、擬人化作品が求められたのだろう。
それなのに、フェルメールはこの作品で「神様っぽいけど、人間のモデル使って描いてますよ」と、ネタばらししてる。フェルメールだけじゃない。レンブラントだって、花の女神フローラを自分の妻の顔に描いて「モデルは人間ですよ」と見せつけている。
まるで、Vtuberの中の人を晒すがごとき行為!
コレはいったいどういう事だろう?
作品に描かれた、フローラや学芸の擬人化の聖性を、描いた画家自身が否定するような行為じゃないか。
しかし、実際に作品を見れば、そんなことはない。モデルがレンブラントの妻でも、絵の中のフローラは花の女神だし、フェルメールの絵の中の女性は、間違いなく永遠の美しさを持っている。
たとえ、人間がモデルであったとしても……いやむしろ、
「人間をモデルにしていても、描かれた作品には聖性を持たせることができる」
あるいは、
「人間をモデルにするから、聖性を描けるのだ。真の聖性は人間の中にこそあるのだ」
という事なのか?
ダ・ヴィンチは構造の探求によって、リアリズムを追求し、その向こうのものを見ようとした。だから、見えるがままの人間には、聖性は認められなかった。
しかしフェルメールは、カメラ・オブスクラという見えるがままの光景を二次元に移す技術を手に入れて、構造の探求は不要になった。
彼により、見えるがままの人間に、聖性が認められるようになったとしたら、そのあたりに理由があるんだろうか?
意見を封殺する「芸術」というタグ、思考を奪う「名画」というタグ。
以下の二作品は、赤瀬川氏にわりとボロクソに言われてる。たとえ、世界的な巨匠の歴史的な名画だって、嫌いなものは嫌いだと言って良いのです。
むしろ、ドンドン言うべきなのです。
それを単なる悪口と思われないためには、それなりの知識をつけて、理論を組み立てなければなりませんが、それもまた勉強のモチベーション。
それにしたって、赤瀬川氏の文章の調子はずいぶん激しい。ルノワールやアングルの、これらの作品に対する批判だけでなく、名画という名目だけ、巨匠という肩書だけでありがたがる人々の醜悪さ、理屈で描かれる絵から漂う死臭などへの嫌悪感。いやもう憎悪ですねコレ。
その代表に引っ張り出された作品も災難だなあ。
でも、自分にもそういう嫌悪感や憎悪はあるので、ちょっと吐き出そうと思います。
ルノワール『ピアノによる少女たち』
世の評価を受けた画家がそれに迎合し、過去の自分の作品の模造品を、手癖で粗製乱造するというのは、よくある話。
ユトリロの晩年とか、そりゃあ酷いものだ。
それを避けるには、モディリアーニみたいに早死にするか、ピカソみたいに画風とか付き合う女をコロコロ変えるとか、藤田嗣治みたいに歴史の荒波に滅茶苦茶に翻弄されるとか、そういうのが必要だったりする。
さらに、赤瀬川氏はこうも語る。
地方自治体に続々と建設される豪華公会堂や豪華美術館に似ている。税金は公金である。橋や道路や実用以外のものに使うとなると、賛否両論でなかなか成立しない。公会堂や美術館になると、反対がなくなる。ぜんぜん必要とされていなくても、知育のため、文化のため、教養のため、という言葉が表面に張りついている。その言葉にあえて反対の理由は見つからない。反対すると、あの人は文化程度の低い人だといわれそうなこともあり、譲り合いの形で議会を通過し、豪華物件が各地で次々と出来上がり、中はがらんどうだ。
14章 ルノワール『ピアノによる少女』「名画」という名のヤラセ産物
全くその通りだけど、そういう論点では、ルノワールはまだマシなのだ。
やっぱり『ラ・グルヌイエール』あたりの作品はスゲェし、ダンス三部作もスゲェ。何がスゲェと言って、ただキレイなだけじゃない。『ブージヴァルのダンス』なんて、地ベタにポイ捨てされた吸い殻まで描き込んである。どうしてそんなモノまで描いちゃったのか、不思議でたまらない。そういう謎が時々あるのも楽しい。
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』とか『座るジョルジョット・パンティエ嬢』とか、美少女を描きまくってくれたのがもう素晴らしすぎる。ただ1880年代に入ると、肌や髪がなんか変な色になって、目つきもなんだかおかしくなって、スゲェ怖くなる。そりゃもうヒデェもんだ。
ちょうどこの『ピアノによる少女たち』もその頃……
いったい、何があったんだろう?
そんな風に、画家や世間の変化まで色々楽しめるのだから、たとえ駄作でも、駄作という事に意味があるだろう。
最近の「中身ががらんどうの豪華物件」は、それすらない。例えば建築家なんて、仕事の出来ではなく政治力と営業力で選ばれたりする。今でもそう。むしろひどくなっている。一々名前を出したらキリがないレベル。
建築家だけではない。現代アートも作家がどれだけ有名かで選ばれる。もしくは有名な評論家や有識者などに、どれだけコネがあるか、どれだけウケるかで価値が決まる。
有名建築家や有名作品には山のようにカネを突っ込むけど、学芸員や司書は雇わない。
それで「文化事業」とは、笑わせるにもほどがある。
もちろん、有名作品にはそれ相応に芸術的価値もあるけど、それをちゃんと知らしめることができる美術館やメディア、ライターやキュレーターというのは、なかなかいない。
色々と情けない記事も多い。
日常的な大量生産品をわざわざ模倣し、ギャラリーという美術のための空間に展示する。それまでのアートの常識を打ち破った本作は、当時の消費社会を批評的に表現するとともに、「芸術とは何か」という本質的な問いを投げかけるものとして、現代美術史において高く評価されてきた。
鳥取県美術館がウォーホル《ブリロ・ボックス》を3億円で買う理由。
ホラ見てください。
また「芸術とは何かという問いかけ」ですよ?
現代アート界隈は、二言目にはコレを言う。
聞き飽きたし、そもそも大噓だ。
問うと言うなら意見を聞くべきだろうに、もうこの作品には三億円という値がつき、美術館の目玉として収蔵される事が決まっている。もう芸術だと決め付けてるじゃないか。
問われた結果、こんなモノ芸術じゃないという意見が出て、議論の結果それが通ったら、三億円は返却されるのか?
美術館は、芸術じゃないガラクタでしたと認めて、ゴミ箱に捨てるのか? しないよなあ?
そもそも、何十年も前から、問いかけていると言いながら、何の議論も進んでいませんよね。だってウォーホルの作品は芸術だ、というのは「常識」だから。
「ウォーホルの作品は常識を打ち破った、だから芸術だ」
という「常識」は、打ち破ってはいけないのだ。
問いを発したのなら、意見を聞くべきだし、その結果に従う覚悟はするべきだろうに、
「こんなモノ芸術じゃない、三億円の価値なんかない」
という意見には聞く耳を持ちません、
「この作品は三億円の価値がある芸術作品です」
という結論以外は認めません、というなら、最初から覚悟を決めてそう言ってもらいたい。
それは「芸術」というタグを、異なる意見を封殺するために使うという事だけど。
個人的には、ウォーホルの作品は、ゴミもあるけどちゃんと芸術してると思うし、好きな作家ではあるんだけど、むしろだからこそ「芸術とは何かという問いかけ」なんて、陳腐な定型文で済ませる事に腹が立つ。厄介ファンかな?
ウォーホルの作品のどこがイイのか、それを語り始めると、あと一万字以上必要なので別の機会に。厄介ファンですね。
少なくとも当時、ルノアールのこの絵を買った者は、後世、他人からどんなに駄作と言われようとかまわないと、覚悟を決めていたはずだ。
身銭を切って買ったというのは、そういうことなのだから。
アングル『泉』
時に「芸術」が、意見を封殺するためのタグとして使われると書きましたが、では「名画」というタグはというと、何も考えさせないタグとして使われたりします。
このアングル『泉』はその代表みたいな感じ。
誰もが「よく描けてますね」「キレイですね」と認めるし、それ以外の感想を抱きようがないというのを、赤瀬川氏は
「通俗的な題材を、儀礼的に描いている」「描きたいという気持ちがない」「風俗店の待合室にピッタリ」等々、それはもう散々な言いよう。
色々考えたけど上手く文章にできないので、色々はしょってとりあえず結論だけ書くと、要するにAI生成絵画なのだ。
アングルは、自分の中にありとあらゆる「名画」のデータをインプットして、最大公約数の「名画」をアウトプットしていたのだ。
そういえば、AI生成絵画で人体のバランスがおかしいのは『グランド・オダリスク』の背骨が長い、というのと同じだし、複数の出力絵画で同じ部分があったりするのは、1863年の『トルコ風呂』に、1808年の『浴女』と同じ女性がいるのと同じだ。
今、世界中が何億も投資して、最先端だぞってドヤ顔でやっている事を、200年前に人力でやっていたとすると、それはそれでスゲェなあアングル。
「上手く描けています」「キレイですね」とは言えるけど、それ以上は、だから何? という感じ。「ここが下手くそ」「ここがダメ」なんていちゃもんつける手がかりすらない。コレは全くAI生成絵画の特徴そのもの。
そんな絵は、当時はアングルしか描けなかった。
アングルの『泉』は、そんな空虚な存在に、ただ「名画」というタグだけがついているという、とんでもない作品だ。
その空虚さを受け取って、さらに極めたのがデュシャンだ。彼はその作品を空虚にするために、題名すらアングルのこの作品の名前のコピーにした。
作者も表現も創作も、一切が存在しない空虚に、ただ「芸術作品」というタグだけがそこにある。
デュシャンの『泉』。
さて、考えて見てください。
最も影響を与えた芸術作品と言われる、デュシャン『泉』の創作の元になり、現在、最先端の表現であるAI生成と同じ役割を、二百年前にこなしていたアングルの『泉』は、はたして名画と言えるのか?
言えるとしたら、それは何故か?
……「名画」とは何ですか?
現状報告(主に #note の更新)及び
— レオナール・フグ田🐚 (@LeonardFouguta) January 5, 2025
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