赤瀬川源平『名画読本』(前編)
名画の見方を学ぶという事は、どういうことか?
「美術芸術をどう鑑賞するかなんて、他人から教えてもらうものではない」
というのは、よく聞く話です。
「鑑賞した結果、どんな感想を持つべきか?」
なんていうのは、確かに他人に教わる事ではない。しかし、
「どう鑑賞すれば、自分なりの感想を持てるのか?」
という事ならば、他人から教わってでも、様々な方法を試してみるべきでしょう。自分に向いた鑑賞方法を見つけるのは大変ですが、ひとたび見出せば、名画の鑑賞だけではなく、日々の生活の出来事や、社会の動きにも、そのモノの見方は役に立ちます。
特に名画は、多くの人々が、ああでもないこうでもないと、その鑑賞方法に試行錯誤してきました。それらを学んだり、自分の方法と比べる事は、自分のモノの見方を訓練するには何より役に立つことでしょう。
赤瀬川氏は、二つの鑑賞法を提案しています。
赤瀬川氏はこの本の「はじめに」の章で、二つの方法を提案しています。
ひとつは、早足で鑑賞すること。
展示室の壁に並んだ作品たちの前を、横目で見ながら早足で通り過ぎて、印象に残っていた作品を、後でゆっくり見る。もちろん、解説などの掲示物は、最初は読まない。
これは自分からもお勧め。というか、いつもだいたいそんな感じで見ています。ただ自分の場合、気になった作品をじっくり見た後、また最初から早足で見て、気になる作品をもう一度探すという事を、時間と体力の許すかぎり繰り返す事が多いです。最初は目をひかなかった作品も、気になった作品をいくつかじっくり見た後では視点が変わるのか、妙に気になったりするのです。そんな自分の変化も楽しい。
もう一つは、自分の身銭を切って買うつもりで見ること。
自分の身銭で、という所がキモだ。
「なんでこんな絵に何億も?」
なんて、世間からアレコレ言われるブツというのは、大抵、税金や会社の金など、他人の金で買われたもの。あるいは、
「値段が上がったら転売しよう」
と、美術作品ではなく、金融商品として買われたもの。
つまり個人の価値観ではなく、会議室や市場で値段が決まる商品だ。
個人がその身銭で買うということは、その人が自分の人生の一部を、その作品と引き換える、ということだ。
そしてその後の人生を、その作品と共に生きるという事だ。
それはつまり、どういう事かというと……
先日のこの「展示されている作品が全て個人蔵の展覧会」についてのレポートを読んでいただければ、少しは参考になるかもしれない。
自分の生活の場に、その作品があったら、日々がどのように変化するだろうか? と想像してみて欲しい。そのために、今までの人生の、どれだけを引き換えにできるか?
それは、自分が生きてきた過去の日々にどんな価値があり、これから暮らす未来の日常を、どのようなものにしたいかを考える事でもある。それらを量る天秤の分銅として、名画はなかなか役に立ちましょう。
私からも鑑賞法を一つ、提案します。
私からは、作品を単体ではなく、二つ以上を比較して観る、という方法を提案したいと思います。特に、同じ要素を含む別々の作品を比較するのが、分かりやすいでしょう。
同じ作者の二つの作品。同じ時代の二つの作品。
同じモチーフの二つの作品。同じテーマの二つの作品。
同じ地域や学校出身の、別々の作者の作品。
鑑賞を始める手がかりには、同じ要素のある二つの作品の、違う部分について、何故違うのか? と考えてみる。
入門としては、同じ展示室に並べられている二つの作品で、違いを考えるというのが、分かりやすいかもしれません。
同じ壁に隣り合わせで掛けてある作品は、だいたいの場合、学芸員氏が「この二つを比べて見て欲しい」と思っているものです。外れても構わないので、その意図を想像するのは、とても楽しい頭の体操です。
この頭の体操の良い所は、美術館に行けなくても、美術館にない作品でも、この本のように、複数の作品を紹介している絵の本を使ってでも、できることなのです。
「何を描くか」と「どう描くか」
モネ『日傘をさす女』
モネが描こうとしているのは光だ。そのために印象派という一派を立ち上げるまでに至った。そんなのは、常識レベルで皆が言っている事だ。それなのに、この女性の絵になると、まるでルノワールの絵を見ているかのように、描かれている女性の魅力について語らずにはいられなくなる。画家モネの価値が、光の描写にあるならば、モチーフが睡蓮だろうが、積み藁だろうが、大聖堂だろうが、その詳細は二の次になるはずなのに、この女性が描かれたら、モネが、彼女にどんな想いを抱いていたか、考えずにはいられない。この本の絵は女性だけだけど、息子が隣に立つバージョンもあって、そうなるともういけない。光の描写に対する考察はどこへやら、モネの家族への想いを想うことが止められない。
モネの描く光に、光学理論ではなく情緒を読み取ってしまうから、そんなことになるんだろうか?
日本で、モネたち印象派の絵の人気は、彼らが理論的に光の効果を追求したからではないのだ。常にうつろい、次の瞬間には失われている風景の、儚い情緒を感じているからだ。
作者は、どう描くかにこだわっているはずなのに、見る者の興味は、何が描かれているかに向いてしまっている。
この食い違いって、日本だけかしら。だとすると、だいたい白樺派のせい。
マネ『オランピア』
マネのオランピアは「当時はスキャンダラスだった」というけれど、今でも十分センシティブだと思う。
股間を隠すように手を置いているけれど、むしろその動作が手の下の存在を強調しているようだ。「どうせ、猥褻な事を考えているんでしょう」と、さげすむようにこちらをじっと見つめてくる顔つきも危険。むしろ、猥褻な事で頭を一杯にして当然、という圧力。
他にも色々、エロスを煽るネタは散りばめられているけど、スリッパが片っぽ脱げていて、そろった足の指先がチラリと見えいてるなんて、どれだけフェチをこじらせているのか。
このエロティシズムを最大限に発揮するために、肌の白さを徹底的に強調するような、陰影の少ない描写。磁器のような色使い。体温と体臭が濃密に満ちた空間を思わせるために、真っ暗闇の室内。
マネの場合は、何を描くかにこだわった結果、どう描くかを適切に選択している、ということか。
風景の中に描かれた人物は、どこまで風景か?
ブリューゲル『雪景色の狩人たち』
五百年前の北ヨーロッパの田舎の真冬。
肺が痛くなるような冷たい空気が、カリカリに凍っていて、空を裂くような鳥の声は、遥か彼方からも届くのに、眼下の村のざわめきは深い雪に吸われて消える。しかし、ようやく帰った狩人たちにしてみれば、子供らの動き回る姿を遠くに見るだけで、その声が耳に蘇るんだろう。
ロートレック『ムーラン・ルージュの踊り』
百五十年前のパリ。
葉巻の煙、キツい酒と香水の匂いが充満した酒場の空気が、そこにミッシリと集まった、踊る女や、彼女らに熱い視線を注ぐ男の、汗や吐息に蒸しあげられて、ねっとりと絡みつくようだ。グラスや食器のぶつかる音、人々の会話や歓声を、塗りつぶすように響く楽団の演奏。
人々が風景の中に描かれる時、そこには彼らが呼吸していた空気、感じていた音・匂い・温度・湿度まで描かれている。むしろ逆で、その空気を描くために、人物が描かれたのかもしれないし、人物は空気の一部だ、とも言えるかな?
人物のいる風景が描かれた絵について、どこまでが風景で、どこからが人物だろう? それとも、そこに線を引くことに意味はないのかな?
塗り方の違いは、認識の違い。
塗り方に特徴がある三人の画家。
セザンヌは、塗り残しがあっても気にしない。
ゴーギャンは、陰影や光の具合など気にせずに、肌や髪や、服や地面と、オブジェクト毎にその色を絞り込み、これだ! と思った色で彩色する。
マチスはもう、元の色や形すら気にしない。画面を構成する上で、一番適切と思われる色を配置する。
セザンヌ『坐る農夫』
上手く言えないんだけど、セザンヌの彩色は、どこか会話を思わせる。顔はこう、鼻筋はこう、袖はこう……そうやって、言葉にして、その人の姿を描いていく感じ。だから、言及されない部分は当然出てくる。手前の方から袖、組まれた手の上になった側は、その様子が語られ、明確に描かれるけど、奥の腕のさらに胸のキワとか、重なって下になった側の手、語られない部分には、筆も当てられない。ある人を思う時、語られない部分があっていいように、塗られていない部分があっても、その人を思い描く事はできる。いやむしろ、誰か実際の人物について、思い浮かべる時や語る時には、空白があるのが当たり前。自分自身ですら、全ては見えない。
ゴーギャン『タヒチの女たち』
人が何かを認識する時は、全てを見ることはない。最も強い印象を以て、その対象を認識するのだ。だから、ゴーギャンは最も強い印象を受けた色彩で、その対象を塗りつぶした。胡坐をかいて座っている女性のワンピースは、ピンク一色で塗りつぶされていて、脚をのばして横座りしている女性は、白いシャツと花模様の赤いスカートに塗り分けられている。一色で塗りつぶすと言う行為が、どこからどこまでが一つのオブジェクトなのか、という存在の解釈まで伝えてくる。
マチス『ピアノのレッスン』
マチスは、部屋の陽光が差し込む部分を緑色の三角に、それ以外の空間を灰色にしている。そのくせ、柱と窓枠の区別もつけない。何をオブジェクトとして認識するかも、もう好き勝手に決めているのだ。目の前に広がる光景を、既に絵画として認識していて、そこにあるモノが何なのか、いや物質か空間かすら頓着せず、ただ形と色にしか興味がない様子。
しかもその色も形も、マチスの解釈と感性によって、画面に乗る時点では、まるっきり別物に。
それでも、緑の三角形と赤い平行四辺形が響き合うせいか、ストーンと落ちてくる、茜色と薄水色の太い直線のせいか、ピアノの音が聞こえるような……いや、今まで聞こえていた、ピアノの音が、ふと途切れたような、そんな雰囲気がある。それは多分、この色彩構成でなければ、感じ取る事ができなかった雰囲気なのだろうと思う。
「人のいない風景」と「人のいる風景」
シスレー『サン・マメス』
うらうらと陽の当たる川縁の草原。川面の青さは、空の青さを映しているのだろう。細波が、光る雲を描き足している。快晴だけど、空気は暖かさにうっすらと白く霞んでいる。
そんな気持ちよさそうな場所なのに、誰もいない。
川原だけじゃない、遠くに白く横たわる家並みにすら、誰もいないように思われる。気配はある。遠く離れた景色なのに温もりすら感じる。それなのに、誰もいない気がする。
なぜだろう?
そりゃ、気のせいだとは思う。そんな風に見るのは自分だけだろうとも思う。
もっと不思議なのは、誰もいないのにちっとも寂しくない、というところ。風景そのものが、体温を持っているように、暖かい。シスレーの絵というのは大抵そうだ。画家の人格のせいかしら。ただ風景の素敵さだけがそこにあって、画家の自我は消え去っていて、暖かな眼差しだけがある。
画家が自分を謙虚にしているから、そこにいたはずの人々も謙虚に引っ込んでしまったのかな。この川原や、白い家並みに暮らしている人も、自我を捨てて、暖かな空気に溶けて、画面全体に広がっている。
ゴッホ『アルルの跳ね橋』
こちらは人の姿がハッキリ描かれている。人がいるからこそ暖かく明るい風景だ。ゴッホはいつも、人恋しい人恋しいと訴えているけれど、特にこの作品は、そんな人恋しさぶりがあからさまに出ている一つ。
橋の上をトコトコと渡る馬車のオッサンが、馬にかけている声や、洗濯しているオバチャンたちの、笑い声や話し声が、にぎやかに聞こえてきそうだ。そういう、穏やかな生活へのゴッホのあこがれが、痛いほど感じられる……
だけど、この距離感……これ以上、ゴッホは近づけないのだ。だって自分は、変人の頭のおかしい絵描きだもの。近づけばきっと嫌な顔をされる。石を投げられるかも。自分と親しくしてくれるのは、タンギー爺さんくらいだ……
そんなのゴッホの思い込みで、アルルの人はみんないい人。それは分かっている。だけどどうしても怖くなってしまう。人の輪に入れない。そんなコンプレックスまで、ひしひしと感じられるのだった。
コロー『コンスタンティヌスのバシリカのアーケードから眺めたコロセウム』
遺跡の絵。コローは『真珠の女』などの人物画も名作ぞろいだけど、森とか、水辺とかの風景を、薄暗い、ぼんやりした空気感で書く、バルビゾン派の代表的画家として知られる。『落穂拾い』『種まく人』のミレーの仲間。だけどこの絵に緑色は無い。白い石が赤く煤けた廃墟。
人はずいぶん昔に死に絶え、亡霊さえも乾いた風に吹かれて散り散りに消え去った。そんなカサカサした風景。
バルビゾン派というと、湿度の高い風景画や、生活感のある農民画というイメージだったので、これはちょっと驚いた。ただ、改めてバルビゾン派の絵を見てみると、確かにどこか寂しい気配もある。絵画における、古典的な価値観の終焉の予感がある。実際にこの後、たいして間を置かず、印象派が登場して一切がひっくり返るのだ……
コローも、それをうすうす感じていたのだろうか?
栄枯は移る世の姿、昔の光今いずこ。
ユトリロ『コタン小路』
箱の内側みたいな袋小路。正面の階段を昇れば、丸々と実をつけた果樹の緑にたどり着くだろうが、割れ目のように細い裂け目は薄暗く、階段は壁のようにそそり立って、こちらを拒んでいる。小さな黒い人影がいくつか見えるが、立ち去る彼らの背中は、壁よりも厳しくこちらを拒む。
白い壁の煤け様は、その建物で積み重ねられた日々の営みの色。今も壁の向こうには暖かな家庭がある。窓や鎧戸は固く閉ざされているけれど、古びてアチコチが隙間開いていて、その隙間や、屋根の上の小さな赤い煙突から、白い箱の中の温もりが、細く漏れ出ている。
でもユトリロは、この寒い路地に一人ぼっち。
都会の生活の暖かさと疎外感を、一枚の壁の表と裏のように一つに描くところに、彼の作品の凄みがある。
長くなったので前後編に分けます。後編は、
フェルメール、ダ・ヴィンチ、ルノワール、アングル。
「名画」とは何か? まで考えてみようと思います。