2022年の東京から、香港を想う
私は学生時代、たびたび海外旅行に行っていた。
コツコツと旅行のために貯金し、出発の2ヶ月ほど前から鬼のようにバイトのシフトを入れて怒涛の追い込みを仕掛け、十分に楽しめるだけのお金を握りしめて海外に行く。必死にバイトに明け暮れる日々も、異国の地へ行ける喜びを想像すれば、なかなかに楽しかった。
社会人となったいま。あらためて考えれば、お金のない学生時代に頑張って行かずとも、社会人になって安定して稼げるようになってから行く、という選択肢もあったのかもしれない。そのほうが、経済的にも精神的にも、無理して行くよりも遥かに楽しめたのかもしれない。
最近、ふと6年前に行ったある国のことを思い出した。旅の記憶を思い返しながら、時の流れを感じざるを得なかった。やはり6年前の私は、あのときに飛び立つべきだった。
私が人生ではじめて海外に行ったのは19歳、大学2年生のとき。初海外の地として選んだのは、香港だった。
地上103階のラウンジから香港の街を一望できる「The Ritz-Carlton HongKong」で嗜んだアフタヌーンティー。息をのむ美しさに圧倒された、100万ドルの夜景。地元民が集うローカルなお店で食べた朝粥。限られた時間を存分に楽しもうと練ったプランは、我ながらなかなかに良いものだった。
タクシーから眺める街の景色も、夜に煌めくネオン街も、現地の方々の表情も、香港の日常の一つひとつの光景が新鮮だった。「19歳の子どもが…」と怒られてしまいそうなほどに贅沢なアフタヌーンティーまでプランに組み込んで、旅は充実そのもの。しかし、ほかでもないこの旅のいちばんのメインは、最終日の晩餐だった。
その場所は、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品『花様年華』の作中、主人公のチャウとチャン夫人が食事をするシーンの舞台となったレストラン「金雀餐廳(Goldfinch Restaurant)」だ。
私も友人もウォン・カーウァイ作品のファンだったことから実現した、こちらでのディナー。緊張しながら店の扉を開け、あのシーンが思い出されるテーブル席に通してもらい、友人と2人でメニューを眺める。
注文するものは決まっている。もちろん「花様年華コース」だ。
やや興奮気味に待っていると、コースの料理が次々に運ばれてくる。
スープにはじまり、エスカルゴにロブスター。貴族が食べるかのような豪華な食事でテーブルが埋まる頃、緊張しながら店員さんに写真撮影をお願いする。
快く引き受けてくれた店員さん(めちゃくちゃイケメンでジェントルマンだった)がカメラを構えるのを確認。私たちはナイフとフォークを手に取り、視線を料理へと下ろした。
写真を撮ってくれとお願いされたのに、カメラを向けても当の本人たちは食事を見ているものだから、ジェントルマンに驚かれた。けれど、店内の壁に大きく飾られた『花様年華』のワンシーンを指さすと、すぐに理解してくれた。
あの日、あの瞬間、私と友人は少しだけチャン夫人に近づけたような気がした。
その後、このレストランはオーナーが他界し後継者がいないことから、2019年に閉店。幻のレストランとなってしまった。
それに加えて香港はいま、コロナ禍を差し引いても、気軽に遊びに行ける国ではなくなってしまった。
あの旅行の帰路、友人と旅の思い出に浸りつつ、「また行きたいね〜」と話しながら日本に帰った。あれから6年が経ち、香港は、たった数年でまったく異なる国に変わらざるを得なくなってしまった。
いつか行けるだろうと思っていた場所に、数年後は行けなくなってしまうかもしれない。そんな悲しい現実を身をもって感じた瞬間だった。
6年前の自分の感覚と行動力は、間違いではなかった。あのときに感じたこと、見た景色、街のにおい、歩いた場所は、いま望んでも叶わない経験なのだから。
とても旅行など考えられない現在。来年には旅行の計画を練ることができているだろうか。はたまたマスク生活は変わらずなのか。わくわくした気持ちで成田空港に向かう日を心待ちにしながら、香港という国に想いを馳せた、ある日の出来事であった。
世界情勢がどうなろうと、そこに暮らす人たちは、私たちと変わらずに毎日を生きている。いつかまた、香港に遊びに行きたいな。チャン夫人になることは、もう叶わないけれど。
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