掌編小説 『置き忘れ』
よく晴れた休日の昼下がりの公園に、ベンチで肩を落とす男の姿はふさわしくない。天気とはうらはらに、彼の人生はいつも薄ぐもりだった。誰にも誇れない、薄暗い人生。外の世界はこんなにも申し分なく晴れているのに、自分の人生にはまるで日が差さないのはどうしてなのか。男は一人、思い悩んでいる。
予期せぬ彼女の妊娠に、する気もなかった結婚をあわててした。双方の親から大反対を受けたが強引に籍を入れ、翌年にはもう一人子どもができた。あっという間に月日は経ち、上の子は今年中学生になった。成長するにつれどんどん金がかかる。下の子はプロのサッカー選手になりたいから地元のチームに入りたいという。プロになれる人間なんてたった一握りなのだ。わざわざチームなんかに入らなくても、友達と遊んでいるだけで十分ではないかと男は思う。しかし妻はあの子はサッカーが大好きなのだから、入らせてやってくれとうるさい。そんな甘い考えで通用するものか。男は突っぱねた。そもそもそんな余裕はわが家には無い。
大好きなだけじゃだめなのだ。男も二年前に夢だった洋食屋をはじめた。だが思うように客が来ない。従業員を雇えず、妻と二人で切り盛りしている。妻は男のやることにいちいち文句をつけたがる。ここはこうした方が良い、あそこはああした方が良い、もっと愛想良くしろ、メニューを工夫しろ、インターネットを使ってとにかく宣伝しろ、上から目線でものを言ってくるのが男の気に障る。
とうとう首が回らなくなった。家賃すら払えない。何度も実家に泣きついてきたが、これ以上は無理だと断られた。薄情な親だ。このままでは店を手放さなければならないかもしれない。念願叶ってやっとで手に入れた店なのに。男が頭を抱えていると、妻が自分の実家から金を借りてきた。否、貰ってきた。封筒の中身を見て、男は怒鳴った。こんな情けないまねをするな。今すぐ返してこい。
妻の実家とは絶縁状態だった。向こうは大事な一人娘を奪われたと、男を恨んでいた。さんざん蔑まされ、必ず彼女を幸せにすると、面と向かって男は啖呵を切った。そんな相手に、金を恵んでもらうことなどできない。
「そんなこと言っても、これ以上私たちじゃどうすることもできないでしょう。このお金を返して、どうするの。このままお店を手放してもいいの」
目を真っ赤にしながら、妻は言った。男はさらに腹が立った。完全に俺をばかにしている。あの高慢な両親にそっくりだ。
返してこい、と、男は再度怒鳴りつけた。「お前の両親の情けなんか絶対に借りはしない。あとでどんな風に恩に着せられるか判ったものじゃないからな」
妻は肩をふるわせて泣いた。廊下で立ち聞きしていたらしい上の娘が、飛び込んできた。母親に寄り添い、もうお店なんてやめたら、と、強張った表情で男に言う。お父さんいつもひどい顔してる。お母さんと喧嘩までして、どうしてお店を続けようとするの。こんな風だったら、もうお店なんかやめた方がいいよ。
男は全身をわななかせた。
「お前たちの為に必死にやっているんじゃないか。お前たちを食わす為に、朝から晩まで、必死で。そうやって苦労している父親の顔を悪く言うなんて、何てつめたい娘だ。そんな恩知らずの娘に育てたおぼえは無い」
気がつくと、妻と娘は抱き合いながら泣いていた。涙で濡れた顔で、そっ
くりな目つきで、男をはげしくにらんでいた。
男はこの公園に来る前に買った一枚のスクラッチくじを、こまかく破いてばらまいた。たった数百円でさえ、当たらない。徹底的に運に見放されている。なんて冴えない人生なのだろう。思えば人生ずっと薄ぐもりだ。どうしてこんなに暗い人生なのだろう。何もかもが上手くいかない。もっと晴れやかな明るい人生を送りたかった。
息を吐き、足元に目を落とす。自分の影がそこにある。頭が垂れ下がり、肩も弱々しく丸まって、いかにもみじめな、負け犬のシルエット。重たくどんよりとして、暗い。こんな暗い重たい影をひきずって歩いているから、自分の運はいっこうに良い方向に開かないんじゃないのか。いつまでも薄ぐもりの人生なんじゃないのか。
向こうでキャッチボールをしている親子の影を見れば、男の影より軽やかで、溌剌としている。同じ影でも、全然違う。いきいきとして、明るい。明るい影だ。明るい人生を送る者の影は、やはり明るいのだ。
それに比べて自分の影は、まるで地獄の沼のようだ。必死にもがけばもがくほど、その暗さに沈み込む。
俺の人生の足を引っ張っているのは、この、辛気くさい影だ。男は憤然と、靴の底から自分の影を引き剥がした。べりべりと、勢い良く。もうこんな暗い影をひきずって生きてはいられない。もっと明るい、幸福な人生を送るのだ。
剥がした影はそのままベンチの下に置いていく。立ち上がって去ろうとすると、ボールを追いかけてきた子どもがベンチまでやってくる。残された影に気がつき、「おじさん、忘れもの!」
男は走って逃げだす。「おじさん、忘れものだよ!」子どもは懸命に呼び止めようとする。それはわざと置き忘れていったんだ。俺は俺の不幸な人生をそこに置き忘れて、これからは幸せな人生を生きていくのだ。純真な声を振り切って、男は公園を出た。
それからすぐに男の店は潰れ、妻は何も告げずに子どもを連れて実家に戻った。後日、手紙とともに判を捺した離婚届が送られてきた。手紙には、二度と子どもたちには会わせたくないと、書かれていた。
男の元には借金だけが残った。自分も実家に身を寄せると、父親が倒れ、昼夜働いて借金を返しながら介護をする生活がはじまった。頼れる兄弟はおらず、不慣れな介護は想像以上に辛い。おまけに過労のせいか、母親まで近頃言動が怪しくなってきた。金は出ていくばかり溜まるのはストレスばかり。仕事では若い連中に見下され、毎日プライドを傷つけられる。
良いことなど一つも無い。なぜだ。あの暗い、悪夢のしみのような影は、たしかに公園のベンチに置き忘れていったのに。
「それで万引きか」
対面するスーパーマーケットの店長は男の話に耳を傾け、言った。腕を掴まれ事務所に連れてこられて、男は驚いた。そのスーパーの店長は、高校の時の同級生だった。
お互い年を取ったものだな、と元同級生の少し薄くなった頭部を見ながら、男は呟いた。二人が挟むスチール製の机の上には、男が万引きしようとしたものが整然と並べられている。ジャムパン、ちくわ、ツナ缶、ふりかけ……つまらないものばかり。
「しかし学年一のモテ男で、国立大に行った男が、どうしてこんな田舎に帰ってしがないスーパーの店長なんかやっているんだ? 将来は官僚になるんだって言ってなかったか。お前もしょせん井の中の蛙で、たいしたことなかったんだな」
せせら笑う男を、元同級生の店長は黙って見つめるだけだった。男は相手の左手に指輪が無いことを目で確かめる。こいつに嫉妬したこともあったが、それも遠い昔の話だ。
「お前の影も暗くて重たいんだろう。俺と同じで」
男は椅子から立ち上がる。
「ほら、俺には影ができないだろう。俺はたしかに、あの日、あの公園のベンチの下に、自分の影を起き忘れていったんだ。俺の人生にべったりと貼りついていた不幸の原因を。それなのに、それまで以上の不幸が訪れるなんて、どうしてなんだ。おかしいじゃないか。俺にはもう俺の人生を邪魔する暗くて重たい影なんて、存在しないというのに」
「……日の当たらないところには影はできない」
元同級生は静かに言った。「お前にはとうに日が当たっていたんだよ。たっぷりとな。けれどお前は、その日差しに気がついていなかった。いつでもお前に向かって日は差していたのに。振り向けば、すぐそこに光はあったのに」
「何、」
男は瞠目する。
「今のお前に影が無いのは、影を置き忘れたからじゃない。光を失ったからだ。お前が置き忘れていったのは、影じゃなくて光の方なんだよ」
唇を引き結び、男は自分の足元を見る。影を持たない自分は、まるで実体の無い存在のようだった。
「今回は通報しないでおく。それがお前にとって最善かどうかは俺には判らん。きっと、お前次第だ。だがもし再び万引きをしようとしたら、次は必ず警察に突き出す。しがないけれど、親から受け継いだ大事な店だからな」
元同級生はそう言って、男に微笑みかける。年を重ねても、色男の笑顔に変わりはなかった。男は深々と頭を下げた。
【 終 わ り 】
*ギャラリーより素敵な作品をお借りしました。どうもありがとうございます*
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