掌編小説 『猫のスープ』

 別居している妻に電話をかけた。飼っている猫がスープになってしまったと。

 何の冗談? 彼女は怪訝けげんそうに返した。何の冗談でもない、事実だ。僕が冗談下手のサプライズ嫌いだってこと、君が一番よく知っているだろう。予定外のことは、苦手なんだ。

「だって、どうやってあの子がスープになるの。あなた、もしかして……、」

「ばかなこと言うなよ。それこそ冗談じゃない」

 僕はやや本気で怒る。

「そうね、ごめんなさい」

 彼女は素直に謝る。「訳が判らなくて」

 そうだよな、と、僕も同意して頭に手をやる。全く訳が判らない。猫がからっぽの鍋に飛び込んだと思ったら、たちまち溶けて、スープになってしまうなんて。

「もう元には戻らないのかしら。元の猫の姿には」

 僕は唇をひきしめる。そもそもそろそろ寿命だったのだ。猫は僕が十代の頃から飼っていた。彼女は猫をいたく気に入り、猫も彼女をおおいに気に入った。歴代の僕の恋人のなかで最もなついた。だから彼女と結婚することに決めたのだ。僕も猫とまるで同じ趣味をしていたので。

 だけどひと月前から僕らが別居を始めて……彼女は現在、友人の家に居候している……、猫は見るからに消沈した。医者に診せても、だめだった。長いつき合いの僕よりはるかに彼女のことを慕っていたのだろう。もしかすると僕ではなく彼女を自分の主人と定めていたのかもしれない。

「もうずいぶん年寄りだったから。化けたんだよ、スープに」

「何それ」

 彼女は怒ったようにあきれたように溜息をついた。

「年季の入った猫は化けるって、昔からの云い伝えだろう」

「そうだけど。それって大抵、人間にでしょう。どうしてスープなんかに」

 かわいそうに。彼女はつぶやいた。君がスープを好きだからだよ、とは、僕は言えなかった。彼女は毎日、スープを作る。日替わりで味も具材も変えて。スープを作ることが、生きがいのように。

 僕は鍋にさわった。さっきまで温かかったのが、気持ちぬるくなっている。放っておけばどんどん冷めていくのだろう。本当に猫はもう元の姿には戻らないのだ、と、判った。

「ねえ、スープを飲みにおいでよ」

「スープ?」

「このスープさ」鍋の側面を爪で軽く叩く。

「何をばかなことを言って。そのスープは、あの子なんでしょう?」

「だからさ。このまま取っておく訳にもいかないだろう? 腐ってくるかもしれない。流しに捨ててしまってもいいのかい? それよりも、僕たちふたりで食べてやった方が良いんじゃないのか。僕たちの、体の一部にしてあげないか」

 彼女は一寸、黙った。僕たちには子どもがいない。いわば猫が子どもの代わりだった。二人とも、それで良いのだと思っていた。それで僕らは幸せだ。実際、幸せだった。だけど今、こうして別々に暮らしている。

「……判った。行くわ」

「完全に冷めないうちに、おいでよ」電話は切れた。

 僕は鍋をバスタオルにくるんで、こたつの中へと移動させた。彼女が来るまで少しでも温かいままにしておきたい。火にかけることはためらわれた。元の猫の姿には戻らないとはいえ、残酷な行為に思えて。

 ついでに自分もこたつにもぐり込む。まろやかなぬくもりが、眠気を誘った。

 夢の中で、彼女がスープを作っていた。鍋をかき混ぜ具材を煮込みながら、彼女は泣いていた。涙のしずくが、スープのなかにはらはら落ちていく。足元を、鳴き声だけの猫が、心配げにまつわりついていた。

 出来上がったスープを、彼女はテーブルで待つ僕に運んできた。ひとくち啜って、僕は顔をしかめた。いやに塩気が強いな。ちゃんと味見はしたのかい。これじゃ体に毒だよ。

 それに、と、舌を突き出して、先端についたものを指でつまんで取る。猫の毛じゃないか。何だって猫の毛が入ってるんだ。

 仕方ないじゃない。わざとじゃないわ。あの子がいるのだもの、と、彼女は答える。

 そうだけど、それにしたって不注意だし、不快だよ。

 僕はまた、ぺっ、と、毛を吐き出す。見ればスープ皿一面に、猫の毛が浮かんでいる。僕は仰天して目を剥く。何だい、これは。いくら何でもひどすぎるんじゃないのか。

 あなたは潔癖すぎる。辛抱ならないというように、彼女は言い返す。いつも自分の理想を人に押しつける。それにその毛は、あなた自身の毛よ。

 何だって。

 僕は自分の顔を撫でる。顔面毛むくじゃらだ。あわててスープに映る自分の姿を確かめる。これは間違いなく猫の顔。

 ちがう、これは僕の毛じゃない。こんなごわごわして、品の無いのは。そうだ、どこか野良犬の毛だ。こんな品の無い毛は、絶対に猫の毛なんかじゃない。

 すると彼女は泣きだすみたいに両手で自分の顔を覆った。

 あなた知らなかったの。私が本当は犬だってこと。

 その告白に、僕は愕然とする。嘘だろう、君、君だって、猫のつもりで生きてきたんじゃないのか。お互い猫のつもりで、僕ら一緒になったんじゃないのか。

 ──彼女が両手をどけると、そこには犬の顔があった。

「ねえ起きて」

 肩を揺すられて目を覚ますと、彼女がいた。やあ、と、僕はまぬけな声を出す。「よかった、人間の顔だ」

「何の冗談? 冗談嫌いのくせに。寝ぼけているのね」

 彼女はあきれ返ったように肩を下ろした。「あの子は?」

「ここだよ」

 僕はこたつから毛布にくるんだ鍋を出す。──良かった、まだ冷めてはいない。完全には。

 スープを皿によそうと、一人分余った。僕らはこたつで向かい合って食べた。ふしぎと口にすることに抵抗は無かった。

「かつおぶしの味がする」

 と、彼女。僕にはササミの味がした。

「薄味ね」

「スープは薄味の方が良いんだよ。塩気が強いものは体に毒だ。大事な体にさ」

 彼女ははっとしたように僕を見た。僕は微笑んだ。「あいつは君のこと、すごく大切に思っていたからさ。僕のことよりも」彼女はスープ皿に視線を落とした。

「あの子はどうしてスープなんかになったの」涙声で、言った。

 僕もスープを見つめた。薄味の、体にやさしいスープは、僕の細胞と細胞の間に、くつろぐように染み込んでいく。全く猫の所業だ。

「これがあいつの、死にがいだったんだよ」

 彼女は頷き、涙をこぼしながらスープを啜る。猫のスープはお日様のように彼女を力づける栄養分となる。その栄養は、甘えるように次の皿へも注がれていく。

 スープを食べ終えると、二人とも満ち足りた腹をさすった。やわらかな猫の毛が、胃の内壁をくすぐったみたいだった。



【 終 わ り 】

*ギャラリーより素敵な作品をお借りしました。どうもありがとうございます*

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