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掌編小説 『 月の友』

 古い友人が月で死んだ。ともに書物を愛する無二の友であった。彼が月の都に移住をしたのは、今から十年も前のことだ。酷く用心深い性格で、人工知能の所為せいで事故に遭うのはいやだからと車も運転しない奴だったのに、大胆にも月へ渡ることを決意したのには驚かされた。幼少のみぎりに読んだ竹取物語による月世界への憧れは、成人してもなお金剛石のように彼の内にあったようだ。

 その彼が月の都で、事故に遭って死んだ。自分が運転しなくても、事故には遭う。人生とは、つくづく思いどおりにはならない。

 無常をしみじみ噛みしめていると、彼が庭に姿を現わしたので生き肝を抜かれた。ながらく会っていなかったので老けた顔を見るのははじめてだったが、瞬時に奴だと判った。

「おいおい、貴様は月に行ったのではなかったのか。おまけに月で死んだのではなかったのか。どうして今ここにこうしているのだ」

 彼は泰然と頷いた。何故だか昔っから自分一人だけ余裕のあるふりをするのだ。うんざりするほど慎重で、ちょっとした異変にもすぐに察して逃げ出す臆病者の分際で。月なんて遠いところで死んだのも、性分に似合わぬ冒険をしたからだ。

「そうさ、俺は月へ行き、月で死んだ。しかしお前に会いにこの地球まではるばる戻ってきたのだ」

「一体どうやって。ロケットで? UFOで? それとも宇宙エレベーターで?」

「笑わせるなよ。人の想いは、銀河さえも越えて届くものだ」

 そう云って、彼はどっかりと腰を下ろした。昔々、二人でよくこの縁側で読書に耽ったものだ。隣りに坐ってしげしげと彼の横顔を見つめていると、生きている者も、死んでいる者も、そう変わりはないものだと思った。

「そうか。わざわざ会いに戻ってきてくれるとは思わなかった。お前の老けた顔が見られて満足だよ」

 なんだかやたら感傷的になってしまった。我々のあいだに、そんな甘ったるいものがまさか湧き起こるだなんて。奴も年を取ったが、私もまた年を取ったと云うことなのだろう。

「俺も月へ行ったきりになるとは想像もしていなかった。いずれ地球へ戻るだろうと思っていたからな。まさかこうやって魂だけで還ってくるとは。いつだって人生は、想像を超える」

 聞けば宇宙のあちこちには、他の星に移住し死んだ者の霊魂が、地球に還ろうとさまよっているらしい。羅針盤のない孤独の旅だ。移住した星によっては、地球へ戻るのに途轍もない時間がかかる。広大無辺の宇宙で迷子になっているうちに、成仏してしまう霊魂もあるそうだ。成仏したのちは何処へ行くのか、彼も、私も、判らない。

「しかしそれでも人の魂は、地球へ還りたいと願うのだな」

 友人は地球の風を味わうように胸を反らせる。私は開けた夜天よぞらを見上げた。視界のきわのきわまで星にうめつくされて、その果てしの無さに、感服するほかなかった。宇宙は永劫、続く。誰かの魂を透かして見る星々は、なんと奇異なゆらぎをすることだろう。

「それはそうさ。此処ここは我々の永遠の故郷なのだから」

「今はもう誰も住んではいない、死に絶えた星であってもか?」

 当てつけるような口調になった私を、友人は昔のようにそっと笑ってみせて、

「そうとも。それでもみなひたすらに、地球の大気が恋しいのさ」

 月に焦がれて月へ渡ったくせに、こんなことを云う。

 りりりと鳴く虫の音は、おそらく私の遠い記憶からの再生だろう。半分に欠けた月の光は勇ましく赤く、本当は欠けたのではなく、無残に壊されたのだ。

 私は頬に手を当て、横目で友人を見た。月の人となって、ひとみが金色になったかと云えば黒いまま。白銀の髪になったかと云えば、黒いまま。何も変わらない。何処どこへ行っても、人間は変わらない。

「お帰り、なつかしい友よ」

 ようやくこの言葉が云えた。透けきって無くなる前に、云えて良かった。

「ただいま、なつかしい友よ」

 彼は目をほそめた。私とくらべて随分ずいぶんと皺が出来る。もう百年経ったかのようだ。生粋の地球人に、月の空気は合わなかったのだろう。ざまあみろ、と、ひそかに思ってせいせいした。


【 終 わ り 】

*フォトギャラリーより素敵な作品をお借りしました。どうもありがとうございました*

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