日常に潜む水が、堰を切ってあふれ出す『水たまりで息をする』書評
何度も息を止めて読んだ。
温かさを感じるのに不吉。共感できるのにどこか決定的に欠落している。読むのが怖い。でも、止められない。
間違えたネジで家具を組み立てているような違和感と戦いながら、一気に読んでしまった小説がこちら、高瀬隼子さんの『水たまりで息をする』(集英社文庫、2024年)だ。
主人公・衣津実は都内で働く36歳の女性。夫との間に子どもはおらず、夫婦で平穏な生活を送っていた。
ある日、夫がこう言って物語は始まる。
風呂キャンセル界隈、という言葉がSNSに踊ったのはちょうど今年の春ころだっただろうか。
主にメンタルの不調ゆえに入浴が困難である人を指すが、主人公の夫も、会社の後輩に飲み会で水をかけられたことをきっかけに風呂に入れなくなる。
最初は、ミネラルウォーターで顔を洗う夫に「顔くらい、ちゃんと洗えば」と指摘していた主人公。手を引いてやや強引に風呂場へ連れていっても、ほんの少しシャワーを浴びただけで夫は出てきてしまう。
やがて水道水にすら触れなくなった夫は、体臭が原因で退職。ふたりは夫が足繁く通う川がある、主人公の郷里に移り住む選択をする。主人公が二度と戻らないと思っていた、遠く不便な田舎に。
結婚して十年。
水が、日常をひたひたと侵食していく。
そして、それはいつの間にか豪雨の川へと姿を変える。
この作品には、いくつもの「水」が登場する。風呂から始まり、飲み水、水道水、雨、台風、水槽、川、水たまり、涙。登場人物それぞれが抱える異なる水のイメージが、交差してうねりをあげて、ゆっくりとその口を塞いでいく。
主人公は思う。
主人公の葛藤、東京という希薄な人間関係下に取り残された夫婦という現代的な設定、『社会から逸脱した夫を支える妻』という構図に、読んでいてじっとりとした苦しさを感じる。しかし、読み進めるうちに絶妙に、読者と登場人物(特に主人公)の間に隔たりがあるようにも思えてくる。
優しく穏やかな夫が見せる、自然の水に対する異常なほどの執着。夫にとって最善の環境を求めて行動する妻の、優しく思える言動の端々から滲み出る先を考えない場当たり感。最後まで病院に行かないこと。圧倒的な日常会話の少なさ。
小さな違和感が、この小説をまるごと包んで不思議な読み味にしている。苦しくて、温かくて、不穏で、愛を感じ、ゾクゾクする。そしてそれが、「水」のイメージと相まって独特の世界観を創り出している。
そう、これはありとあらゆる「水」が詰め込まれた水浸しの小説である。
そして、愛情や生きにくさばかりでなく、人と人が愛し合う先にある痛みや、同じ速度や強度で生きていくことの難しさを、こちらがたじろぐほどまっすぐに描いている。
私だったらどうするのだろう。夫が風呂に入れなくなったら。日常が狂い始めたら。私が今までできていたことが、徐々にできなくなっていったら。私が狂っていくことを、私も夫も止められなかったら。
この本の「水」は、私の生活では「水」の形をしていないかもしれない。「言葉」や「悪意」かもしれないし、「インターネット」「友だち」「仕事」のように何気ないけれど生活の鍵を握っているものかもしれない。
いつか、私の日常からも水があふれ出すのだろうか。
本を閉じても、胸のざらつきは消えない。