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第三十二話「急病」長編小説「15th-逆さまの悪魔-」

 琴音は頭痛で早朝に目を覚ました。身体中がまるで絞られているかのように痛む。呼吸もしにくく、激しく咳こんでしまう。喉と鼻の粘膜が乾いて痛い。

 急な体調の悪さに琴音が二時間くらい苦しんだ頃、

「もう起きなさい」

 と母が部屋の前にやってきた。

「起きられない」

「え、何て言ってんの? 聞こえない」

 ろれつが回らない上声を出す体力がなくて、琴音ははっきり話せなかった。

「起きられない」

「入るよ」

 母は赤い顔をして呼吸に苦しむ娘の様子を見て、異常を悟ったらしい。

「起きられないの」

 母が琴音の額に手を当てる。

「すごく熱いよ。風邪引いた?」

「頭も身体も痛い」

 母は体温計を持ってくる。琴音は母に支えられて起き上がり、体温計を脇に挿した。

「ちょっと、三十九度もあるじゃない!」

 母は真っ青な顔になる。

「学校はお休みだよ。リビングで水を飲みなさい。着替えて、病院へ行こう」

 琴音は近所のクリニックへ連れていかれた。待合室で待つ間も全身痛くて耐えがたい。特に頭、肘や膝が痛くて、拍動と連動して圧迫感が生じる。咳の発作が絶え間ない。座っているのもつらくて、できれば横になりたかったが、そうはいかないので背もたれに寄りかかって耐える。

 かなり時間が経ってから、琴音は母とともに処置室へ通された。鼻の奥まで検査器具を突っ込まれた。済むと待合室へ戻るよう言われ、またしばらく待つ。診察室へ呼ばれる頃には昼近くなっていた。

「インフルエンザの陽性反応が出ています」

 と男性の医師に言われた。

「今すごく流行ってるんですよ。症状つらいでしょう。薬を飲めば改善しますから、消化の良いものを食べられるだけでいいので食べて、薬を飲んで、なるべく身体を休ませてください。症状が治まっても一週間くらいは外出を控えてください。学校は出席停止になりますよね。一週間経ったら、もう一度診せに来てください」

 調剤薬局で薬を受け取って帰宅し、琴音は自室のベッドに戻る。しばらくすると眠気が再来した。今朝眠れなかった分のようだ。眠るのもかなり苦しい。琴音は不気味な悪夢を見た。

 夕方、ネムと歌羽にインフルエンザにかかった旨を伝えた。二人とも驚き、心配してくれた。しばらくやりとりしていたが、身体がつらくなって、数十分メッセージを途絶えさせた後、寝ると言って終わりにした。

 高熱と呼吸器の苦しさと全身の痛みで苦しくてたまらない。医師には食事を摂るよう言われたが、いつも以上に食べる気がしない。母が涙を流す勢いで食べるよう懇願してくるので、粥を一口二口無理して食べたが、喉を通るとき焼けつくような痛みを起こすし、全部食べるだけの体力がなくて、気持ち悪くなり、スプーンを置かざるを得なかった。

 二日目の夜、病状が悪化してきているのを琴音ははっきり感じ取った。咳が出過ぎて呼吸がうまくできない。様子を見に来た母は驚いたようだ。慌てて父を呼ぶ。両親は琴音の病気の重さを察したらしく、顔を見合わせた。

「すごく苦しそうだよ」

「県立(県立病院の通称名)で夜間救急やってないのか?」

「県立行く?」

「俺が車を出そう」

 琴音は再び車に乗った。なるほど前日の朝より身体はつらくなっている。駐車場まで歩くのも、座席に座っているのも昨日より大変だったため、明確に自覚された。

 琴音は病院へ着くといよいよ呼吸がしにくくなった。酸素が十分に入ってこない。このままでは死ぬという予感が身体に走り、恐怖した。五分後、ようやく呼ばれた。

 琴音はストレッチャーに乗せられ、見たことない診察室や処置室、レントゲン室などへ次々と運ばれ、移動した。途中で点滴を挿された。最後に男性の医師のいる部屋へ戻ると、両親が待っていた。

 医師は肺のレントゲン写真を指して、言う。

「肺炎ですね。この通り、肺が両方真っ白です。相当苦しかったでしょう。こういうときは、もっと早い段階で救急車呼んでしまって構いませんよ」

 最後の言葉は両親に掛けたようだ。

 琴音は入院することになった。

「このくらいの子なら一週間ほどで回復するのが一般的なんですが、琴音さんは非常に痩せているので、日数はなんともいえないです。長ければ一ヶ月くらいかかってしまうかもしれません」

 と医師に言われた。

 琴音を乗せたストレッチャーは再び動かされ、診察室を出た。病室へ通されるのだと琴音は思った。だが、移動した先は白いベッドとパソコンなどが置いてある狭い部屋で、どう見ても病室ではない。入院用の水色のパジャマを渡されたので着替え、再び横になる。不思議に思っていた。

 琴音はそこでかなりの時間待たされた。点滴のおかげで呼吸は穏やかになったが、どうなっているのか。とても気になる。

 あるとき二人組の女性が現れた。格好と態度からして、片方は医師で、もう片方は看護師だと思われる。

 医師がパソコンの前の椅子に腰掛けた。

「植田琴音さんですか」

「そうです」

「楽にしてていいよ。少し質問するから、身体がつらくない範囲で教えてくれる?」

 医師は、両親はきちんと毎日十分な量の食事を出してくれるか、罰で食事を与えられないことはあるか、暴力を振るわれることはないか、など、思いもよらないことをいくつか尋ねてきた。

 琴音が、両親にひどいことをされることはないことを示すようにひとつひとつ返答すると、医師はそのたびにメモを取っていた。 

 質問の次に

「念のため身体を見せてくれるかな」

 と言われ、看護師に手伝われて琴音は先ほど着たばかりのパジャマを脱ぎ、身体を見せた。何度か体勢を変えて、下着で隠れるところの他はみんなチェックされた。

「琴音さんは摂食障害と診断されているのかな」

「そうです」

「掛かっている病院と、先生の名前を教えて」

「××病院の、大塚先生です」

 医師は納得したようだった。最初より晴れた表情で

「植田琴音さん、ご協力ありがとうございました。疲れたでしょう。今夜はよく休んで」

 と述べて、看護師とともに部屋を後にした。

 琴音はすぐ後に別の看護師たちによって病室へ運ばれた。

 病室に着くと両親が現れた。

「何を思われたんだか色々聞かれちゃったよ。でも無事疑いは晴れた」

「大変だったよね」

 と両親は苦笑いしていた。

「早くよくなるんだぞ」

「ママは明日また来るから。荷物ももってくるからね」

 両親はそう挨拶して家に帰っていった。

 寝る前に、琴音の前に担当だという女性の看護師が現れた。自己紹介したあと、ベッドの周りの機器を少しいじってから、また去って行った。
 

 琴音は慣れない病室で、疲れを覚えた。ただでさえ身体が苦しく痛いのに、あちこち連れ回され、あれこれ聞かれて、大変だった。

 それに途中のあのチェックは、明らかに両親の虐待を疑ったものだった。疑いは晴れたようだが、父と母に悪いことをした。私は私の意思で食べないだけなのに、と琴音は罪悪感を覚え、苦々しく思う。

 精神的に疲れて弱り、眠れないような気がした。だが苦しさと頭痛と熱の中から、意識が薄れていくあの感覚が現れた。病気が重くなる感覚と区別がつかないが、琴音の思考は徐々に空回りし出す。

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