見出し画像

谷崎潤一郎『春琴抄』 感想文

 「自分は、人生の中で子供を設けることはおそらくあるまい-」

 十代の頃、漠然とした決定を下した。女性と付き合う時には早めに伝えていたし、それで相手を傷つけたこともあっただろう。それでもその決定は確信に近いものがあった。

 年を経るごとに「子供」という明確な存在のみならず、そもそも結婚という生活様式に対しても思うところが出てきた。

 村上春樹氏の著作『ねじまき鳥クロニクル』を読了した頃、その漠然とした思いが恐怖心に近いものであったことに思い至る。人を愛し共に生活をするということは幸せな営みである一方、愛する者に襲いかかる脅威に対し躊躇せず金属バットを振るう可能性も併せて引き受けることである、という事実に行き当たった。つまり、人を愛し続けることの血生臭さに怯んでしまったのである。

「これは子供どころじゃないぞ、結婚をすることも一筋縄ではいかないのかもしれない」

そんな頃『春琴抄』を読んだ。

 そこに描かれる言い伝えは言葉を必要とせず、「夫婦にあるべき普通」も必要としなかった。

 どんなときもただ寄り添い、心を推し量るだけである。数人の子を設けはしたものの自ら育てることはなく、里子に出している事からもわかる通り、二人の関係はあくまでも夫婦であり師弟であったということなのだろう。

 春琴が病床に伏せる直前、共に中庭に出て彼女の愛でた雲雀を大空に放つも、いつまでも戻ってこなかったという象徴的なエピソードに一抹の寂しさを感じるが、その寂しさでさえ共有できる二人だけの世界に行けたのならばそれはとても幸福なことなのかもしれない。

 また、他作品にも見られるようにSM的な解釈で見られがちな作品ではあるが、氏の描くフェティシズム的側面から見れば個人的には擬似近親相姦的な背徳が感じられた。

 と、今回もまた自分語りが過ぎてしまいましたが読者諸賢は首肯せらるるや否や

                        (おわり) 


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?