“見る”〜国見ヶ丘
車で朝弁を食べながら地図を広げてたら、そうだ!行きたかったんだよねここ、○十年前😯
思い出しましたが、私の初一人旅の1日目が高千穂だったんですよね。車どころか免許もなく、あきらめました。
すっかり忘れてました。1年前、20年気になってた神社へ行った話をしましたが、それはおぼえてたんですよね。最近そんなふうで、やり残しクリアー✨が多いです。ずっと昔見に行けなかったアニメ映画見たりとか。
当時も神話に興味があったんですね。
ここからナントカのミコトさんが国を“見た”と。その“見る”の意味合いがわかってくるのはかなり後になりますが、それでも、見たかったんですね。
“見る”というのは、ただ見たというのではなく、“見る”ことそのものが、祈り、まじない?、“力”。
詳しくないですが量子力学の、観察、観察者とかもこれに関係あるのでしょうか。
とにかく、来れた。
曇りでしたが、きれいでした。いつものお山があんな方に並んでる。けっこう近い。
遊歩道の先の正面は祖母山。こっち側は行ったことないです。行ってみたいな。
なんと。桜が咲いてました🌸
落ちてたのは後でしおりにしました。
神話。
前回書いた映画ですが、神話の言葉も色々出てきます。その違和感というのもありました。そしてそれ以前に、書かれた神話というのは、ほとんど本当ではないと今は感じています。
あの頃の自分の神話への関心は、どこにあったのでしょうか。ロマンを感じていたのでしょうか。
ずっと、疑うことなく信じていたこと。よいこと、正しいものと、思い続けてきたもの。思いと言うか、それすらもないくらい、自分を作ってしまっているもの。
それに?を感じるということは、とてもむずかしいことでもあり、コワいことでもあります。
ギモンなど持ってしまったら、自分が崩れてしまいそうです。自分を、自分の今までを否定するということは、ある意味一度自分をコロすようなものです。
その時も、“見る”ことは、大事なことになりそうです。“見る”ことができますか。まず。
見ることさえできれば、きっと変化が現れます。すぐではなくても、ゆっくりと、少しずつ。
見て、そこからどう進むかも自由です。変わらないのもありです。それはでも、前と少しちがったものであるでしょう。
岩戸開きの神話というものも、信じていません。言われてるような話としては。アマテ・・さんも神功さんも、いなかったと思っています。
私があの場で感じたかったのは、自然、ほんとうの空気、精霊だと思います。
私は見てきた。
ほんの半日の旅だったけど、見に行って、よかったと、感じています🍀