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【ファッション】オートクチュールの現実:パリの威厳とメゾンのビジネス的戦略

こんにちは♪
レコールドムジークの講師です(*^^)☕🍪

前回記事の続きです👗
文庫クセジュから出ている『オートクチュール』を読み進めておりますため、その概要を、私の補足と共に書いてまいります。



尚、前回記事 & 当記事の内容は、次回投稿する予定の記事(映画『ディオールと私』の内容や考察など)と関連しています。当記事の内容を理解していると映画の内容もより深く理解できるようになります。

💖前回記事はこちら

第一章は「夢」と「現実」の項に分かれていますが、
今回は「現実」の項の概要と考察です。


まず、オートクチュールについて、
:フランスとは切り離すことが出来ない特殊性を持っている
 →過去も現在も、モードにおける世界の首都として際立つ存在である
:当たれば莫大な商業的利益をもたらす完全なる経済活動でもある

という記述があり、以下にその理由が述べられています。

[1.パリ]

☆17世紀後半~フランス革命にかけて、間断なく、モード(特に婦人服のモード)が、フランスのパリから送り出されていた様子。特筆すべき時期に関して、それぞれ解説があります。

■ルイ14世の時代(1638年-1715年)
:ヴェルサイユの最新流行服を着せられた人形が、ウィーンからコンスタンチノーブルマでのあらゆる宮廷を巡回し、
その人形を通して最新服は一般に広まり、ヨーロッパじゅうで模倣された

人形については以下の記事に写真付きで解説がありました。

抜粋です。貴重な資料ですね。かつて30センチほどのミニチュア人形が各国を巡回していたと考えると、なんだか可愛いような気がします(*^^*)🎀

等身大の人形が一般大衆の前に現われたのは、16世紀のヴェニスのカーニバルでした。フランスモードを着飾った美しい蝋人形が、ゴンドラに乗せられて登場したのです。衣裳を宣伝するためのドラマチックな舞台の主人公としての人形は、マネキンの本来の姿を表すものでした。

同じ16世紀にパリの宮廷や世界の有産階級にパリモードを届ける使者として、高さ30センチほどの人形が登場し、数世紀にわたって用いられましたが、その後モードデッサンに取って替えられ、消減しました。この衣裳人形といわれた小さな人形は、衣裳を着せて見せるという点で、マネキンの原型といってよいでしょう。


■第二帝政期(1852年-1870年)
シャルル=フレデリック・ウォルトがオートクチュールに高い身分を与えた。

■それ以降(1870年~)
ベル・エポック(*1)、狂乱の時代(*2)、戦後の時代にかけて、
ポワレやバキャン、シャネル、ランヴァン、ディオールなど、世界中に影響力を持つメゾンの出現が続き、モードの都としてのパリの地位はゆるぎないものになっていた。
→多くの海外のクチュリエたちが競ってパリにその活動拠点を構えるようになった。

💖ブログ主の補足
(*1)ベルエポック Belle Époque:「美しい時代」(1871年~1914年)
明確な定義はないものの、1871年の普仏戦争(フランス・プロイセン戦争)終結後~第一次世界大戦(1914年)開始までのヨーロッパ、特にフランスにおける平和と繁栄の時代を指す。

(*2)狂乱の時代 Les Années Folles (1918年-1930年)
第一次世界大戦の終結(1918年)から1930年代の世界恐慌までの期間を指し、特に1920年代のパリでの文化的な活況が強調されている。
この時期、パリは再び国際的な芸術と文化の中心地となり、戦争の後遺症を忘れようとする活気に満ちていた。



[2.ビジネスとしてのオートクチュール]

:クチュール職人的活動としては赤字事業。
:派生商品を使って行う商業的ビジネスが、莫大な利益を生んでいる。

[クチュールがお金を食う理由]


☆ショーの開催にかかる経費は、数十から数百万フランであり、
主に以下の経費が必要

:熟練職人の何百時間にも及ぶ労働
:高価な使用材料
:絢爛豪華な演出
:マヌカンのギャラ
:衣装
:ヘアメイクやプレス担当
:超一流ホール
:舞台装置
:観客席
:照明装置
:メゾンの住所
→セルビア・ピエール一世大通り、フランソワ一世大通り、
フォブール・サントノレ通りなどの一等地に構える必要がある


しかし、クチュールのもたらす利益は下がる一方
:市場崩壊、プレタポルテ(既製服)との競合によるもの。
:伝統的にクチュールの顧客であった世界の富裕な女性たちも、今ではプレタポルテを堂々と身に着けることが出来る、或いは必要とするなど、社会情勢の変化があった。
//💖ブログ主補足:社会情勢というのは、女性の社会進出など、働きやすい・動きやすい服が必要とされるようになった、それに伴いプレタポルテが流通するようになったという背景があります。

理由1
:制作技術の進歩により、かつてはオートクチュールだけに可能であったエレガントで繊細な仕上がりが、高級プレタポルテにも可能になった。

理由2
:服装の意味作用が変わり、現代社会においては、階層 或いは社会的ステイタスの指標ではなくなってきている。
 →住居やバカンスなどの保養場所がステイタスになりつつある

[派生商品ビジネスの変遷]

1911年:香水を最初に手掛けたクチュリエ:ポールポワレ「ロジーヌ」
1930年以降:香水事業はクチュールメゾンの経営に不可欠なものとなった
1933年:プレタポルテ、最初はポールポワレ
1950年:クチュリエ・アソシエの実験
1960年代:主要なクチュール・メゾンはどこもプレタポルテを手掛けるようになった

→香水以降、高級品から日用品まであらゆる消費財を手掛けるようになる

💖オートクチュールの顧客減少の改善策として、クチュリエの皆様は、ポール・ポワレさんを見習ってビジネス領域を拡大していき、現代にも受け継がれるようなビジネスの伝統が築かれていったのですね◎

また、第一章の一番最後には、ビジネスを拡大した先にある、巨大グループとの連携と、経営権の掌握についても記述がありました。
その巨大グループの一つとして、LVMHについても少し書かれていたので、LVMHに関しても少し補足しておきます。

💖LVMH
:モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンは、フランスに本社を置く世界最大のラグジュアリー企業。
1987年にルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)とモエ・ヘネシー(Moët Hennessy)が合併して設立された。
LVMHは、ファッションや革製品、ワインやスピリッツ、香水やコスメ、時計やジュエリー、セレクティブ・リテールといった幅広い高級ブランドを抱えており、ラグジュアリー業界のリーダーとして知られています。
香水だと、ディオール、ゲラン、フレッシュ、時計やジュエリーは、ブルガリ、ショーメ、ティファニーなど多数。世界中の富裕層をターゲットにした強力なマーケティングに基づいています。

現在のLVMHのCEO兼会長はベルナール・アルノー氏。
LVMHの強みは、ブランドの多様性と卓越したブランド力にあり、
各ブランドは独立して運営され、それぞれが独自のアイデンティティを保ちながらも、グループ全体のサポートを受けている。
これにより、ブランドのクリエイティビティと品質が維持され、消費者に対して一貫したラグジュアリー体験を提供可能となっている。

LVMHはまたサステナビリティにも注力していて、
環境保護やエシカルなビジネス慣行を進めることで、ラグジュアリーブランドとしての社会的責任を果たしています。
「LIFE(LVMH Initiatives for the Environment)」プログラムを通じて、持続可能な開発や資源の効率的利用に取り組んでいます。


では、概要と補足はこの辺にして、
次回は映画『ディオールと私』について書いてまいります!
おたのしみに💖(^^)/

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♪♡デザイナーさんに素敵なチラシを作成していただきました♡♪

ありがとうございます!!!(*^^*)♪


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