【読書感想】阿Q正伝 魯迅
以下の記述は物語のネタバレを含みます。
あらすじ
阿Qというその日暮らしで生きる男性の生涯を描いた物語。
ある日阿Qは村の有力者の女中に迫り、不興を買い村八分にされ、食うものに困るようになる。
そんな時、辛亥革命の革命軍の噂を聞き、革命が何かも理解せぬまま便乗し騒ぎ立てた。
そして革命の火事場泥棒という無実の罪で捕まるが、阿Qは状況も把握できず、ろくな弁解もできないまま死刑が決定されてしまう。
死刑の直前に阿Qはようやく事の重大さを理解するが、時すでに遅くあっけなく銃殺される。
そんな阿Qを見て周りの人々は阿Qの罪だと無条件に受け入れ、銃殺刑の際に芝居の文句持たれなかった阿Qに不満を抱くのだった。
私が感じた物語の魅力
正直に言ってストーリーはつまらないと感じた。恋愛小説のようにドキドキする展開があるわけでもなく、ミステリーのように伏線の回収にハッとさせられる展開があるわけでもない。
しかしAmazonや本の感想サイトなどの評価を見ると『阿Q正伝』は高い評価を得ている。なぜそのような評価の差が生まれたのか?
勝手な考察であるが『阿Q正伝』は「筆者の持つ問題意識を分かりやすく描き、それを読者に伝え共感してもらう。」という点が優れていたのではないかと考える。
『沈黙の春』が環境問題を、『蟹工船』が原爆や被爆者の問題を伝えたように『阿Q正伝』では ”無知や思考放棄の愚かさ” を伝えたかったのではないかと感じた。
私は物語を読んでいて何度か違和感として、無知や思考放棄の愚かさの問題を意識させられた。以下2点その違和感を取り上げたいと思う。
意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒ぐ阿Q
革命党は謀反人だ、謀反人は俺はいやだ、悪にくむべき者だ、断絶すべき者だ、と一途にこう思っていた。ところが百里の間に名の響いた挙人老爺がこの様に懼おそれたときいては、彼もまたいささか感心させられずにはいられない。まして村鳥のような未荘の男女が慌て惑う有様は、彼をしていっそう痛快ならしめた。
「革命も好よかろう」と阿Qは想った。
以上が阿Qが革命に便乗する経緯だ。
政府に対する反発心があるわけでもなく、噂話とそれに右往左往する村人をみてなんとなくで「革命党は謀反人だ、謀反人は俺はいやだ、悪にくむべき者だ」という思いから変心してしまうことに違和感を感じた。
普通なら何か事件などが起きてその出来事に感化され変心をするのではないだろうか。そんな簡単に周りに流されるがまま心変わりするだろうか。
しかしよくよく考えてみると現実での心変わりの際、明確に理由があることの方がまれだ。
例えとして思い当たるのが仮想通貨だ。数年前までは詐欺、無価値なただのデータだと思っていた。有名人や専門家がそれに価値を認め、周りの人々にも扱う人々が増えるにつれ ”無価値” から "価値変動が激しいコモディティ" というように考えが変わった。この際に何か劇的な原体験などは経験していない。
世間や周りの人々の考えや常識に流される。後になったら異常だとわかることでも受け入れてしまう。物語として客観的な目線で見ると違和感を感じたが、気づかないだけでそういった事象は現実にありふれているのだろう。
なんとなく心変わりすることは決して悪いこととは思わない。しかしいったん立ち止まり自分や周りの常識・考えを見直す機会は定期的にとる必要があるだろう。
銃殺刑の際に芝居の文句持たれなかった阿Qに不満を抱く周りの人々
むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い! しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの中うちに歌の一つも唱うたわないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった。
ここでの違和感は「死に際の阿Qに対して芝居のような面白さを求める村人」だ。彼らは友好的、非友好的問わず阿Qと面識があった人々だ。そんな彼らにとって阿Qの死刑が悲しみや喜びといった主観を動かすものではなく、芝居のような客観的なものという点に違和感を感じた。
村人にとっては上から言われたことが全てであり、阿Qの死刑は他人事なのであろう。
しかし実際には阿Qは無実の罪で処刑されている。今回たまたま逮捕されたのが阿Qであり、その不幸はどの村人に降りかかってもおかしくはなかったのだ。
上のことを無条件に信じ、”他人事” として何の疑問も抱かず処理をしてしまう。これも今でもFake Newsとして時代や国を問わず問題になっている。日々目に入ってくるNewsは本当に正しいのか、他人事で済ませていい問題なのかそういう課題定義なのかもしれない。
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