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こうあるべきという洗脳

以前、
『こうあるべきの弊害』について、
noteに書いたが、

わたしの中で『〜べき』を疑うようになってから❛こうあるべき❜は、常に念頭にあって、考えてしまうテーマなのかもしれない。

事の発端

今朝ふつうに朝起きてきたら、
夫がリビングでものすごく深刻な顔でソファーに座って微動だにしない。
なんだかイヤな予感がすると思いながら、いつも通りのルーティンをこなしかけた時に、険しい顔のまま夫がわたしに話かけてきた。

どうも気に入らないことがあるらしい。
何が気に入らないかというと、
最近次男が長男の影響を受けて、
ゲームしか興味なくなるんではないか?ということらしい。

夫としては、
父親の夢を長男に託せなかったが、
次男には可能性があるから伸ばしたいってとこだろうか。
(本人的には否定するだろうが…何を否定するかって?父親の夢ってとこだ)

夫はこういう言い方をしたのだ。
『将来可能性のある次男を長男に邪魔されたくない』
と。

わたしからしたら、『はっ?』だ。
何、その言い方。
もっと違う言い方ないの?
だ。

そんな言い方をされたら、
もちろんわたしは黙っていられない。
もちろん子供を守る立場に立つ。

それが愛情ゆえ、
心配や不安ゆえとしてもだ。

何故そういう言い草がでてくるのだろう。

確かに長男は親の期待通りには動かない。
常識や既存の価値観から一番遠い存在である。
それは決して悪いことではなくて、
逆を言えば、自分の中で腹落ちしないと動かないということで、皆がそうだから右に習えは出来ないけど、自分で考える力はあると信じてるし、ブレないということである。
もちろん今はまだ未熟で幼く、
目の前の誘惑や楽しいことに引っ張られがちだが、それは小学生なら誰でも同じじゃないの?と思う。

確かに今はゲームに夢中、
ゲームが友達とのツールにもなっているので、傍から見たらゲームばっかりしてるようにも見えるが、それでも毎日学校へ行き、帰ってきたら友達と遊びに出かけ、勉強はそこそこかもしれないけど、楽しく毎日を過ごしてる姿は、自分の子供時代と何ら変わりない気がするのだ。
時代が変わり、コロナもあって、
遊び方は変わったかもしれないが、
それをいつまでも自分の時代の価値観と比べて、何が子供にとってプラスになるのだろうと思ってしまうのだ。
反発を生むだけじゃないのか?

フォーカスしてるところが違う

夫は決して長男を愛していないのではなく、愛してるからこそ、自分も男であって男社会を知ってるからこそ、
心配だからこそ、長男に将来苦労してほしくないからこそ、こう続ける。

『このままではゲームばっかりして、勉強もあんまりしないで、だから自分の合わない高校に進学して、人間関係につまずいて、社会に出ても苦労する。だから親が導いてあげないといけない』

これを聞いて、
これを読んだ方はどう感じるのでしょうか?
全くその通りだ。と思うのかな?

わたしは夫とは全く違う見方をしていて、

長男は好きな事に対しては、
ものすごい集中力を発揮する。
それが例えゲームだとしてもだ。
本当に強い思いがあれば、
集中力と普通なら皆がしない行動力もあると思ってる。
生きる力はあると思っている。
それは今まで何年も彼を見ていたから確信してること。
既存の価値観や常識に囚われた世界では、もしかしたら生きづらいかもしれないけど、そうでなければちゃんと生きていけるとわたしは信じている。

どちらが正しいとか悪いとかではないと思っている。
ただ、
我が子を唯一信じてあげれるのは親ではないか?

ネガティブな可能性があるなら、
ポジティブな可能性だってあるはず。
物事には常にポジティブとネガティブが存在しているなら、せめてポジティブに考えようではないか。

だけど夫はそれを無責任と言うが、
そうなんだろうか?

こうあるべきという洗脳

夫の言い方を借りるなら、
『そのがんじがらめの自分の価値観で息子の可能性を邪魔しないで欲しい』

価値観や常識とは、
小さい頃の環境、言われ続けた言葉や、見せられたものが脳にインプットされる、いわゆる洗脳じゃないかと思う。

だいたい時代によって価値観も常識も変化していく。

最後に

話が長くなってしまったが、
わたしが言いたい事はたった1つで、

親が子を否定して、
どうやって子は自分を肯定していけるのかってこと。
不安や心配事があっても、
ぐっと内に押し込んででも、
子供を信じて肯定してあげることの方が、どんな教育方法より効果があるんじゃないかということ。
その上で導いてあげればいい。

否定から入って、
導くなんて、
どんな傲慢だよと、
やっぱりわたしは思ってしまう。




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