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【短編】あなたへ

気がつくと、薄暗い森の中にいた。辺りを見回すと、奥に大きな湖があることに気付いた。湖の中央には橋が架かっていて、その向こうには幾つものあたたかな明かりが灯っていた。
吸い寄せられるように、私は足を進めた。橋はぎしぎしと音を立てる。あの明かりまで、あと少し。そのとき、橋の上に小さなコインが落ちているのが目に入った。
しゃがみこみ、それを拾い上げる。見覚えのない名前が刻印されたそれを見て、何故だか私は急に悲しくなった。戻らなければいけない気がした。どこに戻るのかもわからないままに。
振り返ると、そこにもう橋はなかった。足元さえ今にも崩れてしまいそうだった。私は意を決して湖に飛び込んだ。帰らなければいけない。帰らなければいけないと、私は思っていた。
あの明かりの向こうから、私を呼ぶ声がする。
「温かいご飯があるよ」
「ここには幸せがあるよ」
「もう苦しくないよ」
誰一人として、私を貶めるつもりはないのだろう。心からの哀れみで、優しさで、私を呼ぶ。それでも私は戻りたかった。
湖の底は思うよりも浅く、私は走り続けた。岸が近づいたとき、立ち尽くす女性の姿が見えた。靴を揃えて脱いで、荷物と一緒に置いている。下のほうを見つめ、涙を流している。呼吸は乱れ、とても苦しそうだ。

あそこから見る景色の恐ろしさを、私は知っている。春も間近な賑わい。明日へ向かっていく希望に満ち溢れた、大嫌いな景色。
私の背には翼なんてない。でも、私は飛ぶのだ。飛んだのだ。

どうしてだろうか。私は私の名前を叫んだ。振り返った女性の右手を掴んだ。


長い夢を見ていたのだろうか。ビルの屋上には、まだ冬の匂いが残った風が吹くばかりだ。誰が私の名前を叫んだのだろう。辺りを見回す。私の靴と荷物。あとは一面の空。それだけだ。
携帯を確認する。何の連絡も入ってはいない。だけど、誰かが呼んでくれた気がした。私の名前を呼んだ気がした。
脱いだ靴をもう一度履いた。死にたい気持ちは消えていない。
だけど、あと一日だけ生きてみたくなった。
帰りにドーナッツを買おう。いつもよりいいコーヒーを飲もう。少しだけお洒落して、大嫌いなこの世界に中指を立ててやろう。
あと一日、生きてみよう。



あとがき
先日、情報収集用のX(誰も知らない)で、自殺を図ったとみられるアカウントの投稿を見た。それで、これを書いた。
まず、僕自身もかねてより希死念慮がある。診断を受ける遥か前からあったので、30年くらいの付き合いにはなろうか。なので、簡単に生きろなどと言うつもりはない。様々な状況が少しでも違えば、僕はあの投稿を読むことさえなく、このnoteにいることもなかっただろう。つらい状況でも生きる方法よりも、死ぬ方法の数が多く、いとも簡単に手が届くのだから。
ただ、僕がこれを書いているのは、届けたかったのは、決心のつかないあなたに死んでほしくなかったからだ。
あと一日、生きてみませんか。僕もずっと、死にたいなって思いながら生きてきた。ちょっとしたミスと臆病さで、死ななかっただけ、死ねなかっただけだ。
その結果、別に何もかもが幸せなわけではない。大変なことは変わらず大変だし、嫌いな奴は嫌いなままだし、世界はご覧の有様だ。
でも、僕にはこの居場所が出来た。そこで出会った人たちがいる。かけがえのない仲間がいる。失うばかりではなかった。傷つくばかりではなかった。虐げられるばかりではなかった。悲しむだけではなかった。
あと一日、生きてみませんか。それで、出来たらでいいから、その一日を、何度でも積み上げてみませんか。
僕には権力もない。金もない。ついでに文才もないし、顔もそこまでではない。何か優れているわけじゃない。こんな僕に言われて、嬉しいのかさえわからない。
だけど、自殺を願い続けて生きてきた僕は、今を苦しんで生きているあなたに、もう一日だけ生きてほしい。その一日を積み重ねてほしい。
無責任だと言うだろう。もっと苦しい目にあったらどうするんだと言いたくもなるだろう。責任も取れないくせにと言われても仕方ない。それでも、それでも、踏みとどまってほしい。命をつないでほしい。これは僕のわがままだ、身勝手だ。それでも、生きてほしい。
一人の自殺志願者として、あなたの幸福を願っています。

ナル


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ナル
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