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映画鑑賞会 クリント・イーストウッド『陪審員2番』は「2」が大事だった?
(2024年 12月30日 札幌)
参加者
・三浦光彦:フランス映画研究者
・堅田諒:アメリカ映画研究者
・朴舜起:英米文学研究者
三浦:『陪審員2番』どうでしたか?
朴:聞かれたからいうけど、なんで見たかというと、お二人と話をするために見た訳です。二人は当然イーストウッドだから見るという感じだと思うけど、僕は例えばここで話す必要がなければ見なかったと思う。
堅田:え、そうなの?『アメリカン・スナイパー』を論じたじゃないですか。
朴:なんか、映画というよりドラマみたいじゃなかった?
堅田:そうだね。結構笑えるところも多かったです。
三浦:ずっと笑えましたよね。検事(トニ・コレット)と弁護士の言い合いが巧みなカッティングで映されつつ、ケンプ(ニコラス・ホルト)がどんどん追い詰められていくとことか。
朴:ちなみに、これって実話ベースではないんですよね?ほら、『アメリカン・スナイパー』や『運び屋』は実話が元になってるでしょ。
三浦:『陪審員2番』は実話ではないんじゃないですか?
朴:そっか。ちなみに、最後の場面で検事が家にやってくるのがすごく怖かった。だって、そもそもあの人はヘレディタリーのお母さん役なんだもん。
堅田:トニ・コレットは映画後半にどんどん行動しだすんですよね。強烈な存在感でした。
三浦:怖いですよね。しかもあの場面は、『アメリカン・スナイパー』で最後にカイル(ブラッドリー・クーパー)を殺す男が玄関へとやってくるのと同じですよね。そもそもセルフパロディがすごく多かった。ニコラス・ホルトの妻・アリソン(ゾーイ・ドゥイッチ)が夫の脈拍をはかるのも、『アメリカン・スナイパー』でもありましたし。警察を引退した後で花屋をやってるチコウスキー(J・K・シモンズ)なんか、もろ『運び屋』だし。
朴:車に“Life Rose On”って書いてあるんですよね。あと、子供部屋の壁紙とかもだいたい同じだよね。なんかピンクっぽい感じ。『アメリカン・スナイパー』もそうだった。
堅田:イーストウッドの思う子供部屋はだいたいパターンが決まっているのかも。
三浦:『アメリカン・スナイパー』論でも書いたけど、やはり子供は大事ですよね。今回も「呪われた者」として子供が出てきている。いろんなことの最初のきっかけも流産ですし。
朴:しかも、その事実が途中で明かされるんだよね。
堅田:それはこの映画の特徴ですよね。些細なことではなく、非常に重要な情報があとになってどんどん出てくる。例えば、奥さんが実際とは違う「帰り道」を検事に話す場面は、そういう会話が夫との間でなされていたことが普通は説明されるべきなのに、それをすっ飛ばして急に判事との会話の中で説明し出す。
朴:結果の後に原因が語られる。
堅田:過去の回想は、画面で提示されるたびに細部が少しずつ違っている。原因の後出しと、過去の不安定さは、どちらも因果関係の綻びという点で同じですよね。
・・・
堅田:撮影レベルの話になりますが、『陪審員2番』は『ミスティック・リバー』などであったような引き締まったショットや画面はあまりなかったですね。画もなんだかドラマっぽい。ただ、ずっとサスペンスは持続していて、最後まで見させる魅力がありました。
三浦:その点はやっぱり面白かったですよね。サスペンスというと、割と最初の方の場面ですが、ニコラス・ホルトと喋っている奥さんが急に電気を消して部屋を真っ暗にしてしまうとこがありましたよね。
朴:まだニコラス・ホルトが椅子に座っているのに、勝手に消しちゃうんだよね。
三浦:そう。あそこは、彼が「轢いてしまう」場面の雷のフラッシュと、関係している感じがして。
朴:言われてみれば確かに。そういう符号はたくさんあったね。例えば被害者の恋人で容疑者になるサイス(ガブリエル・バッソ)が車を止めていた場所に数字がある。
堅田:姪の誕生日と同じで、それで気が変わって引き返すんですよね。この映画は一番初めに、妻の主観ショットが3つありますよね。ニコラス・ホルトが目隠しをした奥さんを子供部屋に入れて、そして目隠しをとって部屋を見せる。あれは一体なんなんですかね。
朴:その場面の直前はオープニング映像がながれていて、最後にテミスが出てくる。そのテミスは目隠しをしていて、直後に出てくる奥さんも目隠しをしている。奥さんはテミスなのかな?
三浦:なぜか「妻」が色々と謎めいている、これはイーストウッドの特徴だと思います。
朴:でも、そう思って見てたんだけど、この奥さんは別にテミスの代わりを果たさないんだよね(目隠しもすぐに外されてしまうし)。途中で夫の嘘を暴くんだけど、最後は嘘ついてていいじゃんみたいな感じになってしまう。一体どういう役割なのかわかりにくい。
三浦:奥さん、やっぱり謎めいている。
堅田:彼女は妊娠しているのもあってほとんど家にいるだけですよね。
三浦:『ミスティック・リバー』でも、奥さんが関係ないようでいて、強い影響力を示していましたね。
朴:ケヴィン・ベーコンの妻は事件に関係ないのに、ずっと電話をかけ続けてくるんだよね。
三浦:ショーン・ペンの妻も、「あなたがこの街の王だ」と言うような重要なセリフを言う。
堅田:ショーン・ペンがティム・ロビンスを殺したらしいことを察知したまま、ショーン・ペンとセックスするんですよね。ところで、J・Kシモンズや、キーファー・サザーランドみたいな存在感とバリューのある役者が、本当にちょい役という感じで出てましたよね。あのちょっとだけ出るのは何なんでしょうか?
朴:でも、キーファー・サザーランドがでしゃばりすぎたらまるで『24』だよ。
堅田:その点、トニ・コレットは「顔」の演技がすごかったですね。彼女はだんだん態度が変化してくるんだけど、その変化と「顔」の演技の連動ぶりが良かった。でも、なんであの人は途中から変わっていくのでしょうか?
三浦:最後に、メッセージカードを見るあたりでもそうですよね。
堅田:被害者の家族からもらうカード。
朴:あれを見ただけで、ニコラス・ホルトが誰の夫なのかを閃くんだよね。すごい直感力だよ。
堅田:一応、名前がヒントにはなってますね。カメラがわずかにズームしていく。そこで気づいた時、彼女はケンプの方へ斜めに振り返るんですよね。裁判女での彼女のその動きは、それまではサイスに対してそうだった。それが最後にニコラス・ホルトへとあてがわれていて、ぞくっとしました。
三浦:確かに、ケンプとホルトの二重性はずっとありましたね。そう言う意味で、流産したのが「双子」だと言うのも。
堅田:過去もまた「2」種類に表象されていますよね。回想で提示される過去と、そうじゃない過去、と言う二つの過去がある。流産のことや、過去のケンプのアルコール問題は、全く提示されない。
三浦:関係ありませんが、あの被害者女性は、イーストウッドの実の娘らしいです。
朴:そうなの?
三浦:『運び屋』あたりから実の娘を出すと言うのはちょくちょくやってるけど、でも死んでしまう役で出すと言うのは、、、ただ、被害者の女性は直接に表象されることが殆どないんですよね、そしてそこにイーストウッドの名前(ファミリーネーム)が刻印されている。この映画にイーストウッド本人は出ていないけど、間接的な形で「イーストウッド」という名前が、主役(加害者)の側ではなく、映画の中ですでに死亡している被害者へと刻まれている。
堅田:となると、主演か監督か、あるいは主演であり監督でもある、そういうイーストウッドのパターンのどちらでもない形ですね。
・・・
朴:引退作という噂がありますね。
三浦:真相はわかりませんが、久々に割と重たいドラマを撮ったな、とは思いました。
堅田:私は近年だと『リチャード・ジュエル』がすごく好きなんですが、皆さんは?
朴:『ミスティック・リバー』かな。あれも、子供が犯人だから罪がわかっても罰がうまくいかないんだよね。今回も、「普通の人」の罪が問われてましたよ。
堅田:三浦くんも『ミスティック・リバー』?
三浦:僕もそうですね。
堅田:まぁ、そうなりますよ。もちろん僕も好きです。多くの人が最高傑作だと言いますよね。
三浦:『陪審員2番』の話に戻りますけど、娘をあんな形(殺される被害者)で映画に出すのって、やっぱ少し不可解ですよね?
朴:「なぁ、パパの映画で死んでくれないか?突き落とされて」とか言ってるのかな?
堅田:あんがいウキウキでやってるのかもしれない。
三浦:そういえば、イワシさんという非常に濃密な映画の考察をnoteに書く方がいて、その人の『陪審員2番』の解説が面白かったですよ。ニコラス・ホルトが何度もひざまづくと言うすごく細かい動きに注目していて(https://x.com/seko_champloo/status/1870130067650793980?s=46&t=N1IOdkIxXGOzKmj0mRZnVw)。
朴:待って、ひざまづくっていうその話、俺もしたいな。
三浦:どうぞ。
朴:ニコラス・ホルトって、あの映画で何度もモノを落としますよね。裁判の最中もコインを落とすし、J・Kシモンズからもらった重要な書類も落とすし、コーヒーも落とすし、でも一番は、あの女性を橋の上から落としている。
堅田:はい。
朴:加えて、映画の最初では検事が落とした携帯を拾ったりもしている。でもそれに検事は気づいていないんですよね。裁判所でも、ニコラス・ホルトとサイスを取り違えている証人が「この中に犯人はいますか?」と聞かれた時、わざとなのかコインを落として拾うニコラス・ホルトの顔が見えなくなり、証人は「本当に落としたやつ」に気づいていない。だけど、中でも異質なのは、J・Kシモンズの調査が書かれたレポートを落とすとき、あれは「わざと」ですよね?交通事故は、本当に落っことしていたとしてもわざとではないんだから、むしろあの紙を落とす方が悪い。あっちはわざとだから。そういう話ですか?イワシさんも。
三浦:いや、イワシさんが言っているのは、被害者の死んだ時の姿勢が屈んでいるようなポーズになっていて、それを加害者であるニコラス・ホルトが繰り返しているという話ですね。
朴:それは、ある意味「胎児」のポーズにも似ている。
堅田:少し話が変わりますが、ガレージで妻が夫の嘘に気づく場面、あそこで詰問されるとき、あの時のニコラス・ホルトの顔を映す照明、異常ではなかったですか?
三浦:目の青さが際立ってました。
堅田:もう1つ、検事のトニ・コレットが証人のおじいさんのトレーラーを訪れる時、彼女が去った後、まだ椅子に座っているお爺さんの横顔を少し時間を持たせて撮っていて、その時の光もすごかった。そしてトニ・コレットがアリソンがいる家を訪れたときの玄関先でのアリソン=ドゥイッチの時の横顔もまたすごい。「顔」あるいは「横顔」の映画なのかも。
三浦:あの場面は同時に、「運命論」みたいなものを思わせますよね。もう行く末が決まっていて、そこまでを丁寧に描く。
・・・
堅田:ニコラス・ホルトはいるべき場所にいない人物ですよね。
三浦:陪審員のあのバスの運転手の女性なんか、家庭にいるべきなのに、陪審員をやらなきゃいけないとぼやいていた。『アメリカン・スナイパー』論で散々話したように、イースト・ウッドは家庭と政治という二項を意識的に結びつけている。
朴:陪審員たちは、真相が本当はよくわからないことを考えなきゃいけなくて、その意味では誤審になるのは仕方ないんだよね。でも一方には、ニコラス・ホルトが紙の束を落とすとこみたいに、ちゃんと見えている罪もある。普通は見えていないものの真相が中心になるけど、見えているものをどう罰するか、ということが大事なのかもしれない。だから、奥さんはテミスとは真逆に、目隠しを外されていた。
三浦:結局、イーストウッドは家族がいちばんの悲劇だという話をずっと撮っている。しかも、そこに自分の実際の家族(娘)を出演させてしまう。
堅田:陪審員の意見は、最後一体どうやってまとまったんでしょう?そこは省略されていましたが。
三浦:基本、ニコラス・ホルトが陪審員たちを操作してますよね。
堅田:でも、後半では少年団をやっている陪審員に「お前はずっと様子がおかしいと思っていた」と若干勘づかれている。
三浦:彼を追い詰める人が何人が出ていて、それがリレーしていきますよね。まずはシモンズ、次にそのボーイスカウトの人、最後は検事。
堅田:そして最後に陪審員たちが結論を出す時、そこにはやはりニコラス・ホルトがいない。彼はやはり、いるべき場所にいない。
三浦:堅田さんが最初に言っていたあの斜め後ろの場面、あれはある意味、最終的にいるべき場所にたどり着いたという感じがしますね。ちなみに、ニコラス・ホルトは思い出すのが早すぎませんか?
朴:俺が殺してるかもって気づくのがね。
堅田:あの思い出す場面は奇妙すぎます。いろんなことが省略されて、結果だけポンと出てくる感じですよね。1から10までイーストウッドがコントロールしているなという感じもする。
三浦:決定的なショットがないというのも、そうなのかもしれませんね。
堅田:検事のトニ・コレットは相手の目を見たがるというか、人と相対したがり始めるじゃないですか、途中から。J・Kシモンズと会話している時はスマホを見てるのに、そこからだんだん、人の正面に立ち始める。それは切り返しがうまく使われてる。ですが、最後にベンチでコレットとホルトが座ってるとこと、その後に家で赤ちゃんを夫婦二人であやしているところは1つのショットで2人の人物を撮るパターンに変化する。ですが、最後の最後に検事が訪れる場面ではまた正面性の法則へと戻る。それらの構成が見事でした。
・・・
三浦:何か結論あります?
堅田:んー、なんでしょうか。
三浦:初めに話すべきだった気もしますが、一応この映画は二組のカップルが色んな因果関係を取り違える、という構成になっていますよね。
堅田:大事なことが後になって語られる、あるいは過去が思い出されるたびに微妙に変化する、そういう因果関係のもつれの話に繋がりますが、例えばニコラス・ホルトはなぜあの晩にあの酒場にいたかというと、あの日は生まれるはずの双子が流産してしまった日で、ひどく落ち込んで、家にいたら妻に当たってしまうからだ、とちゃんと言っている。
朴:で、妻との喧嘩を避けて酒場に行くと、別のカップルの喧嘩を目撃する。完全に代理的ですよね。ある意味、あの喧嘩はニコラス・ホルトがやる予定だった喧嘩でもある。
三浦:そうです。だからあの男にホルトの罪が被せられてしまうのは、、、
堅田:そもそも、あのカップルの喧嘩自体が、ニコラス・ホルトと奥さんとの間で避けられたはずの喧嘩の「代理」だったから、かもしれない。
朴:だからある意味、あの「彼女」殺しは、ホルトによる「妻殺し」の代理表象でもある。しかもそういう形で、「双子の赤ん坊の死」と、「女の落下死」とが繋がってしまう。それが意味するのは、女の死から全ての因果を逆再生して、その起点まで辿ると、「流産」という裁きようのない「死」があるということかもしれない。
三浦:最後の方で、検事が「普通の人」が罪人なんだと言いますよね。裁判所で裁くことできない罪がある、司法が扱いようのない次元の罪ですよね。
堅田:『ミスティック・リバー』でも、重要な罪人は子供です。ある意味、裁きようのない存在になっている。
朴:一方に司法で裁かれるべき死に関する罪があり、しかしその原因に裁きようのない死がある。「流産」の罪人なんか、決めようがない。であれば裁きようのない罪には、どのような罰があり得るのか?難しい話になってきた(笑)ところで、僕の結論は、あの紙の束をわざと落とすとこのほうが、知らずに女性を突き落とすことよりも罪が重いということ。彼が何を轢いたのか(誰を落としたのか)というのは結局映されないけど、紙の束を落とす瞬間はちゃんとカメラに映されている。普通は見えない/わからない真相がミステリーだけど、しかし本当に難しいのは、誰でも見ることができる罪かもしれない。
三浦:でも、あの場面は実際はなんで落としたかという理屈がよくわかりませんよね?そもそも、J・K・シモンズはあの時点ではニコラス・ホルトを疑っていないことを明言している。「お前は違うからリストから外しとくよ」とか言って(笑)。だからあそこで落とした意図が、後から振り返るとよくわからない。むしろ、落としたせいでホルトは状況が悪くなっている。あのあと検事がリストを引き継ぎ、家までやってきてしまうわけだから。
堅田:あの瞬間のホルトは、あまり考えずにやっている感じもあります。そもそもこの人は場当たり的に行動する人なのかも。
朴:そういう意味では、あの紙の束の落下もちょっとした事故の瞬間だったのかもしれない。最初の事故があって、そして実は2番目の事故がある。あの検事が本当にたどったのは、実は1つ目ではなく2番目の事故だった。
堅田:なんかまとまった気がします。
朴:だから陪審員「2」なんだ!
三浦:そんな感じで良さそうですね(笑)。