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カントの哲学を学ぼう!入門編【純粋理性批判とは?】永遠平和のための哲学

この記事では、すべての現代哲学の原点とも言える哲学者、イマヌエル・カントを取り上げます。

カントは取り上げるべきことが山のようにありますが、今回はその概要が捉えられるように、ざっくり説明していきます!

カントの哲学は押さえておきたいけど、難しそう…という方は、入門編としてぜひご一読ください!


1. カント、ヒュームの哲学に触れる


カントの代表的著書には「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の三批判書があります。

ここでいう“批判”とは、私たちがよく使う、対象を否定したり、異なる意見をぶつけたりすることではなく、“吟味する”、“熟考する”といった意味を指します。

つまり、理性批判とは、“理性について吟味し、熟考すること”。理性については、それまでの哲学で十分に考え抜かれていましたが、カントはなぜこれを再考したのでしょうか?


カントはもともと、理性によって必ず不変の真理に到達できる、理性の万能性を信じる合理主義者でした。しかし、ヒュームの哲学に触れて考えを改めます。

それまで信じられてきた“理性”は、神聖なものでも何でもなく、「単に知識や経験が束になって作り出されたものに過ぎない」というヒュームの主張は、カントには衝撃的でした。

一方で、この考えをそのまま現実世界に落とし込むと、なぜ人間同士で共通の認識があるのか、答えが分かりません。

カントは「ヒュームの警告こそが、独断のまどろみから私の目を覚まさせ、私の探求に全く新しい方向を示してくれた」と語っています。


私たちの経験には、特有のパターンがある?

もし、人間が創造する概念などが、ランダムな個々の経験による結果からくるなら、触れることのない別々の世界で違う経験をした人間同士が、幾何学や論理学などで同じ結論に至ることに説明がつかない。

カントは、このヒュームの結論の矛盾を乗り越えるために、次のような仮説を立てます。


「確かに人間の認識は経験の束と言えるが、経験や知識を受け取る方法には、先天的な特有のパターンがあるのではないか?」


もしパターンがあるなら、ヒュームの理論においても、人間同士で共通の認識が成り立つことに明確な答えを出すことができます。

「人間の認識は単なる知覚の束なのだから、個々の人間に共通した普遍的な真理は存在しない。」という考えを正しいとすると、それまで“真理とは何か”と、必死で頑張ってきた哲学者たちの積み上げが、ほぼ無意味なものとなり、その後に真理を追究する学問の理由さえもなくなってしまいます。

それに対してカントは「人間の認識は知覚の束ではあるが、その受け取り方には共通性がある。人間としての心理は、存在する可能性がある」とひっくり返し、哲学に再度息吹を取り戻したのです。


2. 大陸合理論 VS イギリス経験論


ここで、カント以前の哲学の世界について少し見ていきます。カント以前では、デカルトを代表とする大陸合理論と、フランシス・ベーコンを代表とするイギリス経験論との間で、激しい論争が繰り広げられていました。

デカルトの大陸合理論は、この世のすべてを疑いきることで、“疑っているこの自分”(我思う、故に我あり)だけは疑いようがないと結論付けました。

極端に言えば、理性だけが絶対に確実なのだから、それ以外は不確実で、真理を追求するためには理性のみに頼らなくてはいけないと考え、演繹法的(すでに知られている法則(一般論・ルール)や前提から結論を導く)に真理を追究しました。

一方で、イギリス経験論側は全く逆の思想を提示。

我々の理性は単に経験の蓄積に過ぎない。経験だけが唯一確実なものなのだから、理性を神聖視するのは間違っていると考えて、帰納法的(複数の事実や事例の共通点を根拠に結論を導く)に真理を追究してきました。


理性または認識は、確実なものなのか不確実なものなのか、どっちなんだ!と議論を繰り返していたのです。それらに対してカントは「どっちでもないんじゃね?そもそも問いの前提が間違ってる。」と言いました。

それまでの哲学では、まず間違いなく正しい何かを設定し、そこを出発点に理論を発展させてきましたが、カントはその大前提である“正しい認識”をひっくり返したのです。


対象が認識に従う

カント以前が探究した大前提とは、哲学で言うところの「モノ自体」です。

モノ自体と我々が認識できる現象を同列に語ってしまうと、二律背反を起こしてしまう。そのため、カントは「人間はモノ自体を認識できない」と、哲学を再構築しました。

内容が難しくなってきたので、以下で噛み砕いていきます。

カント以前の哲学では、認識するための対象が先に存在して、それを見ることによって理性が働き、認識に至るという前提の中で、大陸合理論とイギリス経験論で議論が繰り広げられていました。これを「認識が対象に従う」とも言います。

私たちが普段感じているのは「認識が対象に従う」に近そうですよね?

しかしカントは、まず最初に感性によって“見る”という行為が行われ、直観した情報を異性が受け取り、結果として対象が認識される。

つまり、対象よりも先に認識が存在していると主張しました。これを「対象が認識に従う」と言います。

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