「食べること」がもたらす豊かさ
わたしたちは「食べること」で、いったい何を手に入れているだろう?そんなことを考える本を読んだ。
食べることの時代的な変遷をたどれば、戦前・戦中の食べること自体が大変で困りごとだった時代から、高度経済成長期を経て飽食の時代になり、“食べることそのものから満足感を得ていた時代から、たくさんの食べもののなかから何を食べるかを選択しうるかで満足感を得る時代へと移り変わった”。
そして、”食べものがあふれる「飽食」の時代から、食べることの意味が失われる「崩食」の時代へと突入”した、という。
わたしたちは、食べ物を、空腹を満たすために「胃袋」で食べ、おいしさを味わう余裕が出ると「舌」で食べ、見た目の美しさを「目」で食べ、成分や栄養素を理解し「頭」で食べるようになった。
おおまかに、こういった言説が、「食べること」の時代の変化としてよく語られるらしい。
でも実際には、その時代の変化は複層的で、単純な流れにはできないはずだ。
戦後を生きたおばあちゃんも、高度経済成長を体験したお母さんも、インターネットの発展とともに生きてきた私も、『令和』の時代に生きるこれからの娘たちも、みんな同時にいまこの世界を生きている。
おばあちゃんも炊飯器を使いこなすし、電子レンジでお惣菜を温める。私も漬け物を作るし、梅酒や果実酒もつくる。
「食べること」にも社会の流れという大きな歴史と、もうひとつ個人個人の食の履歴書と言うべき小さな歴史がある。
ライフヒストリーというと、社会学や人類学の領域になるけど、そんなたいそうなものでもなく、人それぞれに「食べること」には思い出や経験が詰まっていて、好き嫌いといったいろいろな感情が込められている。
食べものは、誰かとの関わりの中でできている。
その距離は、現代の社会では遠く離れてしまってるから、そういう誰かは想像しにくいかもしれない。自然や水、光、動物の命、そして生産者。料理する人。一緒に食べる人。
食べることを通して感じることのできる誰かとの関係は、近くても遠くても必ずある。
そうしたつながりを感じることができる食べものは、心に残る。
食べものがもたらす豊かさは、共に在るつながりを感じることにあるんじゃないだろうか、とそう思わせてくれる一冊だった。
『7袋のポテトチップス』湯澤規子著・晶文社
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