「仕事ができる人」がしているたった一つのこと
『プラダを着た悪魔』(2003年)は、実に爽快な映画である。
ファッション雑誌社を舞台に、カリスマ編集長のアシスタントとして入社した女性が主人公となる。メリル・ストリープ演じる編集長がタイトル通り悪魔のような存在で、主人公に無理難題を要求していく。最初、その編集長の要求に答えることができなかった主人公だが、次第に到底不可能と思えるような無理難題にも答え、編集長の信頼を勝ち取っていく。
『プラダを着た悪魔』は、若い女性が仕事の楽しさを知り、成長していく様子を描いた作品だが、同時に「仕事ができる人」を描いた作品でもある。
編集長の理不尽な要求に応えていく主人公は、爽快であり、仕事ができる人とはどのような人かが表されている。
「仕事ができる人」がしていること
「仕事ができる人」はどのような人なのか。「仕事ができる人」は何をするから仕事ができるのか。
普段仕事をしていて、多くの人と会い多くの人の仕事ぶりを見るが、「仕事ができる人」と呼ばれる人は、共通してたった一つのことをしているだけである。
仕事ができる人は、約束を守るのである。
ただそれだけである。
約束を守るなんて、当たり前のことじゃないかと思うかもしれない。俺だって、私だって、誰だって約束を守っているじゃないか、と。
しかし、本当にそうだろうか。仕事をしていても、プライベートにおいても、これまで完璧に約束を守る人に出会ったことがない。見たこともない。もしいたとしたら、人類史上における大天才だと思う。
ほとんど、否、全ての人は約束を守らないのである。このような具合にである。
約束を守らないから、年がら年中、人々は「すみません」「申し訳ありません」と言っているのである。
『プラダを着た悪魔』の主人公は、最初、編集長の要求に応えられなかった。つまり、約束を守れなかった。しかし次第に編集長の要求に応え、信頼を勝ち取っていく。主人公が、上司の要求に応えるという、約束を守る行動ができるようになったからである。
守らない約束には大きく分けて2つの種類がある。自身のミスによるものと、他者とのコミュニケーションミスによるものである。
「遅刻をする」「入力ミスをする」。これらは、自身のミスによるものである。人間は、100%ミスをしないということはない。そのため、ミスをせず完璧に約束を守るということは極めて難しい。ただ、自身のミスがなくなるように努力することは出来る。
「上司の指示と異なる資料を作る」「取引先の要望と異なる回答をする」が、他者とのコミュニケーションミスによるものである。「納期を守らない」は、自分のミスと他者とのコミュニケーションミス、両方が組み合わさったものかもしれない。この他者とのコミュニケーションミスが引き起こす約束を守らないというのが、難しい点である。
コミュニケーションは不完全なもの
コミュニケーションは、常に不完全なものである。まず、この認識を持つ必要がある。
以下のようなケースを考えればわかりやすい。
コミュニケーションとは、常に不完全であり、相手が言うことが完璧に伝わることはない。相手に自分の思いを完璧に伝えることもできない。伝わったと双方が誤解しているだけだ。
これは、ソクラテスの「無知の知」の考え方を借りれば、コミュニケーションにおいては、相手の言うことを理解できないということだけが理解できる、それが真理である。
しかし学校でそのことは教えてくれないし、逆に、コミュニケーションは取れるものと教わる。そして、約束は守るものと教わる。これらは、迷信である。その点に気づかなければならない。
コミュニケーションが不完全である以上、他者とのコミュニケーションにおいて約束を守ることは不可能なのだ。
これは、2500年前にソクラテスが言った「無知の知」、また、250年前、カントが『純粋理性批判』に書いた認識論、即ち「物が存在するから人が認識するのではない。人が認識するから物は存在する」ということでもある。大昔にすでに言及されていた真理を、現代人は忘れているだけだ。
では、約束は守らなくて良いのかといえば、そういうことではない。「仕事ができる人」になるために必要なのは、ここからである。
約束を守ろうとする意識と行動
約束は守ることができない。しかし、約束を守ろうとすることはできる。「仕事ができる人」になるためには、約束を守ろうとし、そのために注意を向けることである。
例えば、先に上げたカレーの例で説明しよう。
完璧に約束を守ることはできない。しかし、完璧に近づくことはできるのである。
この、約束を守ろうとする意識の持ち方と程度が、仕事ができる人とできない人の差になる。
仕事自体は実は簡単なこと
「仕事ができる人」になるために必要な方法を書いた、ネット記事や本が多数ある。しかし、それら記事や本に書かれているような小手先のテクニックを学ぶより、まず重要なのは、土台となる意識である。
土台がぐらついたまま、その上にどれだけ派手でお洒落な建物を組もうと、強い風が吹けばすぐに倒れる。小手先のテクニックでなく、重要なのは、土台である。土台がしっかりしていれば、小手先のテクニックはいかようにでもなる。
なぜなら、仕事の一つ一つは、実に簡単なことで占められている。中学生でもできることが大半だ。複雑な数学の公式を解くわけではない。難解な哲学書を読むわけでもない。仕事の一つ一つを取り上げてみれば実に簡単なことばかりで、しかしそれらが、他者とのコミュニケーションを媒介すると、とたんに難しくなるのである。なぜなら、他者とコミュニケーションは不完全だからだ。
土台を作る。土台となる意識を作る。そのために、コミュニケーションは不完全であるという意識を持つ。そして、約束を守ろうという注意を向ける。それだけでよい。
意識を変えることで見えてくるもの
意識や注意を変えるだけで、劇的に変わる。これまで見えなかったことが見えるようになる。これまで気づかなかったことに気づくにようになる。これまでしなかった行動を取るようになる。
意識を変えると行動が変わるのである。なぜなら、行動は意識によって生まれるからだ。
また、このように意識を変えることで、副次的な効果もある。それは、「怒り」を感じにくくなることだ。
怒りや憎しみ、憎悪といったことは、理想と現実のギャップによって生み出されることが多い。そして、理想と現実のギャップは、他者とのコミュニケーションによって生じることもまた多い。
これは、コミュニケーションがとれるという迷信に過ぎない理想を抱くから、不完全なコミュニケーションという現実を経験した時、ギャップになるのである。
しかし、コミュニケーションは不完全であるという認識をもっていたらどうだろう。コミュニケーションが上手く行かないのは当然なのだから、ギャップは生まれない。ギャップが生まれないのだから、怒りも生まれない。
コミュニケーションは不完全なものであり、コミュニケーションが取れるという迷信を捨てる。つまり、諦める。すると、諦観といってよい精神を築くことになる。
諦観とは仏教用語であり、物事の本質を見極め欲を捨て、諦めるという意味である。「諦める」という言葉は、もともとは積極的で前向きな意味を持つ言葉だった。必要なのは、積極的に諦めるという姿勢なのだ。
「仕事ができる人」になりたい人。もしくは、仕事に限らない。家族と、恋人と、友人とのコミュニケーションを上手にしたい人。そのような人は、上述したような意識を持つことを試してみるとよい。
ちょっと意識を変えるだけで、驚くほど行動が変わるということに気づくはずである。そして、徐々に、もしかしたら画期的に、仕事の成果が変わるはずである。