時間が止まる時

ある日突然、動けなくなった。
仕事から帰ってきて、コートを着たまま床に座り込んで。
そのまま膝を抱えて丸くなって、じっと一点を見つめて。
気づけばいつの間にか、朝になっていた。

感覚は遠くて、まるで他人事みたいに切迫感はないまま。
それでも頭の片隅の冷静な部分は「これって割とマズい感じ?」と囁いていて。
うーん、困ったなぁ、と呟きながら、スマホで友人にごく短いメッセージを送って。

そこからまぁ、色々あって。
あれよあれよという間に休職の運びとなった。

別に、仕事や研究が限界を超えるほどにハードだったとは思わない。
人に説明すれば漏れなく「大変だね……」と呆れられたり心配されたりするスケジュールではあったけれど、もっと飲まず食わずで働いていたことも、もっと眠れなかったことも、もっと精神的に過酷な状況に置かれていたことも、これまでに嫌というほどあった。
そういった過去に比べれば、まだまだ全然余裕がある。まだまだ頑張れる。
まだまだ大丈夫だと、そう思っていた。

けれど実際には、自分でも自覚の乏しかった急所を、緩急つけてコンスタントに攻撃され続けることで、心身は順調にバランスを崩していて。
ある日突然、限界がきてしまった。

多分、対象になったのがわたしでなければ、何も起こらなかっただろうし、わたしが受けた打撃が急所を外れていれば、やっぱり何も起こらなかったんだろう。

例えるなら、肘や膝に爆弾を抱えたスポーツ選手みたいな感じだろうか。
大昔に壊して、日常生活を送れる程度には良くなっていたのに、知らず知らず負荷をかけ続けて、ある日突然爆発してしまったよ、みたいな。
適切な例えになってるかわからんけど。


まぁでも実のところ、自分が爆弾を抱えていること、限界ギリギリで走っていることには、まったく無自覚だったわけではなくて。
振り返ればこの20年くらい、ずっとずっと、エネルギー切れギリギリの状態で。
騙し騙し走り続けながら、いつかきっと訪れるであろう限界の時を、常に恐れていたような気がする。

だから休職についても、周りに迷惑をかけてしまうことは、ただただ申し訳ないばかりだったけれど。
そういった社会的な配慮を抜きにしてしまえば、悲しいとか、悔しいといったマイナスの気持ちよりも、ほっとする部分の方が大きかった。

もう限界だよ。一旦足を止めなさい。
と肩に手を置かれ、レーンの外へと引き出された先の世界では、いつ転ぶかと怯えながら走り続ける不安とは、もう無縁でいられる。
先のことは、先の自分に考えてもらえばいい。

いまわたしがするべきことは、知らず知らず深く大きくなってしまった己の傷と向き合い、癒していくことで。
そのためにはまず、しっかりと休まなければいけない。


けれど、ただ休むだけの時間はきっと、またいらない焦りや自己嫌悪を連れてきそうだから。
「何か」をしているわたしになりたいときは、こうやって少しずつ、文章を書き溜めていこうと思う。

治療の中で知った言葉や概念について。
色々なことができなくなった自分が暮らしていく中で、助けになったものについて。
日々の気づきや、変化について。
そうして、もう少し体力や気力が戻ってきたら、わたしがこうなってしまった経緯を解きほぐすための、思い出ばなしも、いつかきっと。

思考は常と比べると恐ろしく緩慢で、メールのような「相手」のある文章を書こうとすると、ひどく消耗し、時間がかかるのだけれど。
ただ自分のために綴る文章は、案外と筆も軽く進むのだと気づけたのは、いまのわたしにとっては嬉しい収穫だ。


季節は春へと向かっている。
雪解けの季節を彩る草木は、冬を耐え、力を蓄えることで、春陽の中に美しい花を咲かせる。

わたしの冬が長くなるのか、短く終わるのかは知らない。
でもいずれにせよ、すべてが死に絶えたように変化の見えない時の中でも、降り積り、蓄えられていくものがあるのだと。
そのことは、忘れないでいよう。


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