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小学生の頃。 電話をする母親の横顔を見ながら、ふいに、すべてを諦めようと決めたことがあった。 理解を求めることも。理想とのギャップに苛立つことも。 全部全部、わたしの勝手な期待の結果でしかない。 親という存在にわたしが何を望んだとしても、彼女は親である前に、ひとりの人間で。 そう考えれば、理不尽も、不合理も、暴言も暴力も、理想とは程遠いその他すべての言動も、許すことができるような気がした。 だからわたしは、親を諦めた。 理解してもらいたい、受け止めてもらいたいと期待するこ
人は誰しも、自分だけの地獄を生きている。 わたしがそれを知ったのはまだ小学校低学年の時で、だからごく幼い頃から、極力人を羨まないようにして生きてきた。 「羨ましい」という言葉は一見すると無邪気な褒め言葉だが、静かに確実に、相手の呼吸を奪う力を持っている。 本人にとってどれだけ辛くどれだけ苦しい状況でも、外見しか知らない人に羨まれてしまえば、苦悩も不安も不満も、口にした途端、恵まれたものの贅沢な不平になってしまう。 「そんなことないよ」と弱々しく抵抗してみても、「またまたぁ」