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花びらをかさねて塔をつくる

私たちは、花びらを重ねて塔をつくるように。

コミュニケーションとはとても難儀なものだなと、わたしはたいがい億劫になって
とっくに脱出したはずの象牙の塔に、駆けて戻っては扉を閉める。本に埋もれて身をまもり、画面という距離に安堵する。遠くにあれば世界は綺麗だ。

本来、他者とはるかな距離が必要な人間なのだろうと自分のことを思っている。
その距離はなんでもいい。時間や、年齢や、性別。
それははるかなる距離があるほどよく見ることができるからで、反対に身近なものになればなるほど、わたしは絡めとられて足をすくわれるような気持ちになる。
気難しいのは生来の性質で。

けれどどれほど避けていようとも、人間とのかかわりというのは完全に断ち切ることはできず、つまりそんな中でも出会う人には出会うべくして出会うもの。

その人の話をしよう。


その人は不思議な空気のひとで
向かいあっていると体の力がすべて抜けていくような、まわりの人から見てもわたしの様子が違ってみえると言わしめるような、そんな人であり、

わたしははじめ分からなかったのだけれど、何度も会ううちにどうもこの人といると手のひらや指先や、体のあらゆるところが、心と寸分違わず連動してうごかせるような気がすると気づきはじめ、

いつだって己の精神がこの身体に閉じ込められていることが気に食わないわたしなのに、これはいったいどういうことだろうと、それでも楽に息ができるものだから楽な息をしながらその不思議さを手のひらにのせて、

それであるとき、意を決したわけでもなく、思ったそのまま声にのせるようにして、本人にそれを伝えてみたのだった。

あなたといると、体の力がすべて抜けていくようです、と。それは他の人と向き合っているときとは明らかに違って、でもその違いはいったいどこからくるのだろうとわたしは思っているのです、と。

どういう返事がくるかなんて考えてもいなかった。
余計な期待も、過剰な防衛もなく。

その人はわたしのそのモノローグめいた発話を、それでも贈りものとして思ってくれて、
はやくも遅くもない1秒以下の間のあとに、嬉しい返事をくれた。

届けられたプレゼントにサインをして受け取り、そのあと新しい贈りものをこちらに贈るように。
その言葉はわたしが想像もしていなかったもので、それでもわたしの言葉を受け取ってくれたから生まれた贈りもので、確かに、あまりにも嬉しい言葉だった。

コミュニケーション、理解しようとすること、わたしが怖がっているもの。
その人の視線の先にわたしがあり、それでも閉じ込めれていない、と感じるとき、しかしそれはこんなに喜ばしいものなのだ、と知った。

言葉を届けるときは、相手が受け取ったところまでをちゃんと見届けるんだよ、とその人はことあるごとに教えてくれていたけれど、
それがはじめて、実感として、わかった、と思った。それがどれほどの優しさなのかも。


受け取り、観察し、そして生じたものをまた届ける。

受け取ることと届けること、
それはふたり、持ち寄った花びらを1枚ずつ重ねて塔をつくるような作業だ、と思った。

どちらかが枯葉を出したら、もう花びらを出してはもらえないかもしれない。
積み重ねるときに強く投げつけたら、塔はあっという間に壊れてしまうかもしれない。

重ねているつもりなのに全然違う場所に置いていたり、相手が置いているのに次の花びらを差し出さなかったり、壊れる理由ならいくらでもある。
互いの観察と努力のもとにしか、花びらの塔は積み重ならない。

吹けば飛ぶようなオリジナルの楼閣。
それでも積み上げることを諦めきれない楼閣。

それをつくろうとする膨大な愛と探究。

その人がしてくれたやり方を、できればわたしも、それをしたいと思う相手に、いつもしてあげられますように。

そう思ったりしていた。



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