夜空はいつでも最高密度の青色だろうか?
最果タヒのことを話そうと思う。彼女の言葉に出会った日のこと、とか。
遠くに旅に出た日だった。
じりじりと暑くて、小さな本屋に入った。スーツケースは入り口に置いておいた。
目的の本は別にあったのだけど、その本はじっとこちらを見ていた。
じいっと。わたしを値踏みするように。
それが彼女の本、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』だったのだけど。
ぱらぱらと頁をめくってみて、どうも反りが合わないタイプではなさそうだと判断し、
そしたら我が意を得たりという感じだったのか、目的としていた本よりも断然主張をしてくるものだから、
根負けしたかたちになって、わたしはそれを買ってスーツケースに詰めたのだった。あとから知ったけど、それは詩集だった。
数日の旅のあいだ、毎日すこしずつ、ホテルのベッドの上でねむる前に読んだ。これはゆっくり読むタイプのものだと、そう思ったから。
それで最終日にようやく読み終えて、わたしは自分がとても安心していることに気がついたのだった。
なぜって、
わたしは彼女の詩をひとつも、全く、
理解ができなかった。
共感するとか反応するとか、それより前に、
まったく理解ができなかった。
でもそれは驚くべきことに、わたしを大きな安心で包んでくれた。
ここでこんなに、こんなに一所懸命ことばを尽くしている人がいるのに、なにひとつ届かないなんて。
大きな声で、本にまでして、こうして伝えようとしている人がいるのに、それがこんなに上滑りしていくなんて。
その伝わらなさはなんだか感動的でさえあって、
視線ををあげれば、言葉のいらなかったころに引き戻されたみたいに、世界は未知で不思議で、新しかった。ちょっとぐにゃりと歪んでいるような気もしたし、教会に光が差し込んだときみたいな、神聖な感じもしていた。
言葉にこんなアクロバティックな使い方があったなんて、初めて知った。
伝わらないということをもって、
その人の中に新しい空間を見せることができる。
それはなんだか、誰もやったことのない技を見せられたみたいだった。
おなじ言葉を話しても、おなじところで生きていても、
こんなにまで、ひとは違うことを考えているものなのだ。そしてそれは理解ができないのだ。
そう思ったら、なんだかにっこり笑って世界と向き合えそうな気がした。
わたしには彼女の詩はわからないけど、というか詩を理解するとかいうのがそもそもナンセンスなのかもしれないけど、
でもわたしが彼女の言葉にみちびかれて、新しい世界を見たことは事実で。
伝わるとか、伝わらないとか、そういうのを全部超えていけるってこと
最果タヒはせせら笑いながら、わたしの中に置いていった。
もしかしたらそれが、わたしにとっての”詩の効能”なのかもしれない。
わたしの言葉も、もしかしたら誰にも、ひとつも、伝わっていないのかもしれない。
でも、いいのだ。そういうものを少しでもこじ開けようとして、望んでここにいるんだから。
ここで、言葉で、まだまだやれることがあるはずだ。きっと。
そんなことを思いながら、
いまも、彼女のよくわからない言葉をなぞっている。