くちびるに歌を、詩には演奏記号を
雨の中、3人の詩人の、朗読を聴きにいった。
それは、とんでもなかった。
平田俊子氏
伊藤比呂美氏
川上未映子氏
3人の詩人が一堂に会する、素晴らしく濃厚で、息もつけないような時間。
恥ずかしながら、自発的に好んだ詩といえば
タゴールとヒメネスのそれくらいなわたしだ。
そして、芝居は観るものの、朗読劇であまり素敵なものに出会ったことがないから、
朗読というパフォーマンスに、さほど興味も持っていなかった。
でも、引き込まれる。引きずり込まれる。
平田氏はまるで普通におしゃべりするように、大学で講義するように何気なく、するするするすると、言葉をスライドさせて。
いつの間にか、遠くの方まで来てしまっている。
そんな、違った重力の世界にいるみたいな、テキストと言葉と声。
20分なんて、あっという間。
伊藤比呂美氏について書いた「伊藤」という詩は、初見というか初耳なのに、なんだか涙さえでてきてしまいそうだった。
声の大きさも、身振りもいらない。言葉だけが原動力。
次いで、川上未映子氏。
わたしには馴染みのない関西弁。
ああ、この人の頭の中はこういう風に、この速さで、動いていたのだと、
言葉と脳のバイオリズムを感じるいっとき。
ページを繰る速度にも影響しそうな、それは発見。
そしてちょっと、恐れてしまうくらいなのは、伊藤比呂美氏の朗読。
朗読というより、パフォーマンスであり、彼女が詩であり、言葉と一体であり、エネルギーであり、
一編の詩で、長い舞台を見たあとのような気持ちが訪れる。
以前どこかで、あらゆる文筆にかかわる者の中で、詩人がもっとも尊敬される。みたいなことを聞いたことがあるのだけど、
わたしはその理由の片鱗に、触れてしまったような気がする。
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話は変わって、ねえ、不思議なのだけど。
たとえば楽譜を読むときに、そこには演奏記号がついている。
クレッシェンドだのデクレッシェンドだの、アレグロだのリタルダントだの。
わたしの好きなエリック・サティであれば
「ゆっくりと痛ましげに」
「思考の端末で」
「大いなる善意をもって」
こんな奇妙な演奏記号がそこここに見られる。
それは、自分の作品がきちんと解釈されるようにという、作曲家が込めたせめてもの道標なのではないかと思う。
愛しているから、間違って伝わってほしくないんだよって、わたしならきっとそう思う。
でも、詩にはそれがない。
朗読というのが、一応こんな風に、想定されているのに。
それは一体、なんでなんだろう。
誰かに読んでもらうこと、誰かが発語することを想定しているなら、
詩にも、演奏記号があってもいいのではないだろうか。
そんな風に思って、それにわたし自身のこうして書くことやつくることの根源みたいなのにも触れたような気がして、
僭越ながら未映子さんに質問なども、させていただいたのだけど。
やっぱり、あとからあとから疑問は溢れてくる。
詩を、声に出して読むと言うこと。
詩は、それを望んでいるのかいないのかということ。
望むなら、彼らはどういう風に読まれたいのか。
望まないなら、なぜ彼らは読まれるのか…
新しい不思議が生まれては消え、忘れたと思えば思い出されたり。
雨の中で、それはふくらむばかりで。
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