高専生が考える「経験>>>意見」の不等式
自己紹介
第一回目の記事ということで、簡単な自己紹介から始めさせていただきます。
名前 KM
性別 男性
年齢 16歳
職業 高専生
趣味 仮面ライダー
ブルーアーカイブ
小説の執筆
どうもこんにちは、KMです。今年度の春から高専生となりました。
現在は夏休み期間なので、四か月ほど高専に通っていることになりますね。
この四か月間、高専では色々なことがありました。学校内での行事等はもちろんですが、僕にとって、様々な知見やアイデアを得る機会がたくさんあったなぁと感じています。
そんな学びを、みなさんと共有するためにnoteのアカウントを開設しました。まだ16歳という未熟極まりない年齢ですが、少しでも私の人生、そしてあなたの人生の参考になったら嬉しいなと考えています。
それでは、今回のテーマは『経験>>>意見』です。ぜひお楽しみください。
※目次に「半田付け」のワードが大量に含まれていますが、さほど気にしないでください。半田付けは重要ではないです。
経験が意見よりも優れているワケ
はじめに
ここで言う『経験』とは、主に「自分の経験」のことで、『意見』とは、「他人の意見」のことを示しています。
『経験>>>意見』ということで、「不等号を3つも付けるのか」とツッコまれそうです。しかし、本当にそのくらい経験は優れていると考えています。
その理由としては、経験は「信頼性がものすごく高いから」です。
それについて詳しく、僕のこれまでの経験を交えてお話ししていきますね。
僕の所属する高専の学科は電子機械の制御を専門としていて、機械のシステムの動作を調整したり、プログラミングで様々な仕組みを構築したりします。とはいえ、一年生の段階では基礎的なことしか学びませんが。
そして、僕は見失っていたんですよ。この学科のカリキュラムに「半田付け」が含まれていたことを。
半田付けin中学
僕は、手先がとんでもなく不器用です。中学の頃、裁縫の授業で幾度となく痛い思いをしました。授業内で完成できなかった水筒のカバーを、家庭科の先生と二人で作った覚えがあります。正直泣きたかった。
そして、僕は同じ中学時代に半田付けも経験しています。そう、これが問題なんです。周囲の人々は楽だの簡単だの言っていますが、僕にとってそんなはずがありません。
半田ごてを基板に当てるだけ?それができたら苦労しないんですよ。僕が半田ごてを握ると、毎回あらぬ方向に暴走するんです。ふざけるなよと。
これまた凄まじい完成度の基板を制作してしまった僕。「二度と半田付けなんかやらん」と胸に誓いました。
半田付けin高専
はい、あるんですね。半田付けの授業が私の学科にも。工業系の学校なので、当然と言えばそうなのですが。
教授が半田付けの説明をし始めたとき、背筋が凍りましたよ。もう勘弁してくれって。
さらに、授業のやり方がいやらしかった。適当にスライドで半田付けのやり方を示した後に、「はい、じゃあ後は各自で基板を完成させてね。終わった人から帰っていいよ」という発言。
無論、生徒たちが次々と帰っていきます。それに比例するように、プレッシャーが徐々に僕を襲います。さらに、仲の良い友人は僕が終わらせるのを待ってくれていた。罪悪感ものしかかる。
加えて、僕は掌多汗症なんです。手先がめちゃくちゃ滑って、何度か半田ごてを落としてしまいました。
そんな状況で、上手くやれるわけがない。
また泣きたくなった僕。「16歳なのに情けない、心まで不器用なのか」と自責の念でいっぱいになりましたよ。
結局、また教授に手伝ってもらって事なきを得ました。
半田付けでわかる経験の大切さ
僕がこのエピソードで注目してほしい点は、『中学の時点で半田付けの経験を既にしていて、再び高専にて半田付けをした』というところです。
僕は自分の短所を『経験』によって理解できていた。「どうせ最後の一人になるまで残らされる」ということも悟っていた。だからこそ、まだ軽傷で済んだんですよ。重傷にも見えますが、泣いていないだけまだマシなんです。
「半田付けスキルは何も解決していないじゃないか!」と思われるかもしれませんね。その通りなんです。しかし、僕はもう割り切りました。
実は、自分の向いているものを伸ばすことだけが経験じゃないんです。「経験を積んで上達」みたいな言葉はよく聞きますが、自分の向いていない分野を見極めることだって経験が必要なんです。
中学時代に初めて半田付けをする前に、友達から「KMって集中力凄いから、半田付け得意そう」だなんて言われました。僕はその言葉を鵜呑みにして、「自分は半田付けが向いているんだ!」と錯覚しました。しかし、後ほど『経験』によって事実を突きつけられたわけですよ。
まとめ
何が伝えたいのかと言いますと、他人の言葉や意見は話半分で聞いた方がいいということ。そのくらい信用できません。
本に載っている知識だって同じです。たとえどんな著名人がその文章を書いていようが、結局はその人の見方が表れてしまう。
もちろん僕のこの文章だって、自分の見方が全面的に含まれています。だから、みなさんにとっては信頼性に欠けてしまうわけです。
では、どのようにして本や文章、そして他人と付き合うべきなのか。
ある人の見方というのは、参考にはなるんです。鵜呑みではなく、参考。それを理解することで、他人に対する考え方も変わってくると思います。
例えば、ある人がどこかのラーメン屋に行ったとします。感想はその人曰く、「クソまずい」らしい。
これを聞くことによって、僕たちはまずい可能性があるラーメンを避けることができる。だからこそ、参考にはなりますよね。
気を付けたいのが、その人の意見が誰にとっても同じではないということ。もしかすると、自分にとって大変美味しいラーメンかもしれない。こんなとき、他人の意見を鵜呑みにしていると、その美味しいラーメンを食べる機会を失ってしまう。これが、鵜呑みにすべきではないということ。
僕だったら、とりあえず自分の舌で確かめに行きます。もちろんリスクだって生じますが、経験しなくてはある程度正確な答えが得られませんからね。
以上の文章をまとめます。
「一番信頼できるのは、『自分の経験』。次点で参考にはなるのが『他人の意見』」
注意すべきこと
人を介した事実は事実ではないです。事実に限りなく近い意見とでも言い換えましょうか。
例えば教科書なら、純度100%の事実が書いてあるように見えます。でも、そうじゃない。文字に起こして書いている時点で、著者の考えが少なからず入っています。「こう伝えた方がわかりやすい」だとか考えているわけですが、それがかえって事実の純度を低くすることもあるのです(わかりにくくする)。
高専で配布された電気回路の参考書なんかまさにそうで、説明がいちいち遠回しで非常にわかりづらい。この記事でタイトルを出してやってもいいくらいなのですが、流石にやめておきます。
そのため、僕は常に疑う癖を付けることが大切だと思いますね。斜に構える必要はありませんが、批判的思考というのは役に立つかもしれません。
そして、ある時点での経験がその先ずっと役立つかと言われると、そうでもないです。環境は変動するものですから、再び体験するなどして、定期的に経験をアップデートしてあげてくださいね。
それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました!
またお会いしましょう!