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幸福考

お金は多ければ多いほど良い。ほとんどの人間はそのように思っているだろう。私もその例に漏れず、お金を多く持っていればいるほど良いと考えている。その理由をわざわざ話す必要もない。

しかし、私は同時に思う事がある。それは、「お金を得るために苦しみを耐えなければならないならば、それは幸福なのか?」ということだ。

今の社会を見ていると、皆、労働の対価としてお金を受け取っている。中には、労働者を雇い、自らがお金を生み出すことで稼いでいる人間もいるかもしれない。

私は、後者であれば、自らの働き方を自由に変えられるという点でとても良いと思う。何せ、そのような人間たちは、これ以上働かなくても良いほどお金を稼いでいる。彼らは「お金が目的なのではなく、仕事そのものが目的である」場合や、「ただお金を稼ぎたくてそのことだけに特化し、それを楽しんでいる」という場合が多い。

しかし、ほとんどの社会にいる人間は漠然と「お金が欲しくて」、「自由な時間が欲しくて」、「結婚したくて」働いているのではないだろうか。彼らは、他に方法がないから、仕方なく労働という手段を取っているに過ぎないのではないか。

言い換えるならば、「不幸を対価に幸福を買う」という、訳のわからないことをしているようにしか、私には感じられないのである。
自由な時間を得るために、不自由な時間を払うならば、初めから不自由な時間など設けなければよい。そうすれば、全ての時間が自由となる。

お金があればあるほど幸福を感じられるのは間違いがないが、しかしお金を得るためにその分の不幸が増えるという事実は存在するのである。ならば、それは少なくとも人生において考えなければならない重要な問題であるだろう。


社会の人々を見ていると、ほとんどの場合の「労働」が選択の結果であるようには私には感じられない。

「みんな働くから、俺も働く」とか、「就職しないとお金もらえないし」とか、あたかもその選択肢しかないかのように彼らは振る舞っている。
ただし、断っておくが、「家族のため」とか、「生きていくため」とか、そういう理由で、つまりは選択の結果として労働する人に対しては、ここでわざわざ述べるほどの「思うこと」はない。


「将来の為に今を頑張る」ことの是非

1.学生時代の「不幸」

私は小学生の頃、恩師であるI先生にこの言葉をいただいた。「将来のために今を頑張る」。この言葉を胸に、小学校や、中学校に通うことを我慢した。しかし、私は不幸だった。

特筆するべきこともないが、小学校時代や中学生時代も、別に日常生活は楽しかった。無論、高校生の頃も楽しかった。
しかし、受験のために勉強をしたり、卒業のため、毎朝早くから登校をがんばったりすることに、私はどうにも納得ができなかった。

そもそも、勉強などしなければ、遊んでいるその時の私は幸せである。登校などせずに、家でやりたいことをしていれば私は幸せである。しかし、その「楽な選択」をしてしまうことで、後に「後悔」という不幸が訪れるのは目に見えている。だから、「努力する」以外の選択肢がなかった。

私は当時、選択肢がそれしかないからそれを選択する、という状況にひどく困惑した。今は大学生となり努力は正しく報われたが、その状況のためにあの苦しみや不幸を払ったのだと考えると、うまく説明できないが心のモヤモヤが残って仕方がないのである。


受験時の勉強に関しては、その「不幸」からなんとか脱出するために、「勉強すること」そのものを「不幸」ではなく「幸福」であると置き換えることにした。そして、それは成功した。だから、受験勉強自体は苦しいものではなかった。

だが、「登校すること」という、時間に必ず支配され、それに従わなくてはならない「不幸」に関しては、どうにもできなかった。


2.私の根底にある思想

私は、ニヒリズムを信仰している。信仰という表現が正しいかは置いておいて、少なくとも、この世界に意味はないと考えている。ただし、この世界に、人生に価値はあると考えている。それは、ニヒリズムの創始者であるフリードリヒ・ニーチェの思想と一致している。

そして、最も大きな不幸とは「絶望」であるとも考えている。それは、『死に至る病』の著者であるセーレン・オービュ・キルケゴールの思想と一致している。

私は最大の不幸である「絶望」を味わいたくはない。
しかし、将来のために努力することは、つまりは将来に「希望」を持つことであり、もし仮にその将来が不幸なものになってしまったならば、その「希望」は絶たれ、「絶望」へと変容する。

つまり、絶望とは、希望を持つことから始まるのである。希望を持たなければ、希望が絶たれることはない。希望を持たなければ絶望することはないのだ。そのことを私は知っている。だから私は希望を持つことを恐れている。明日のことでさえ、考えたくはない。明日を考えることは、少し先の未来に希望を抱くことになるからである。

もし仮に「希望を持たない生き方」というのが実現可能なのだとして、そして私がその生き方をしているのだとして、その場合の「希望がない」人生であれば、私はきっと現代社会の苦しみに耐えられないだろう。
そして、今までの人生にないような不幸を味わうに違いない。

私が「普通の人生」をみんなと同じように送るならば、それは不幸な人生である他ないのである。
希望を持っても死がある以上必ず絶望という不幸は訪れるし、希望を持たなくても常に不幸と隣合わせになる。

だから、私には「普通の人生」を送るという選択肢はほとんど残されていない。

さらにいうならば、私は全体主義が憎い。
社会のためなら自己犠牲を厭わないとか、人を助けることはいいことだ、みたいな犬根性は持ち合わせていない。
そんな憎いほど嫌いな全体主義的社会の一部になることは、私自身が許せない。

だから私は「個人主義」で居たいし、少なくとも私にとってはそれが「全体主義」よりかは幸せな生き方であると確信している。

そういう理由で、「普通の人生」を送る気が一切ない、というのもある。


3.将来のために今を頑張る

ここまで読んだなら言うまでもないかも知れないが、将来のために今を頑張ると言うことは私にとっては不幸である他ない。

「将来という不確定なものに希望を抱けば、苦しみに満ちた現在であっても耐えられる」という考えは、私にはない。それに、そんな根性もない。そもそも頑張ろうという気概もない。頑張る気もない。

だから、将来のためには頑張らない。

しかし、少なくとも小学生の当時の私にとってはこれ以上ないほど効果的な言葉だった。恩師であるI先生にはこれ以上ないほど感謝している。今の私があるのは、間違いなく過去の自分が苦しみに耐えて努力した結果であるからである。


理想的な生き方

先ほど最後に言ったように、今の自分があるのは苦しみに耐えた過去があるからだと言った。

ならば、今後もそうするべきではないのか、という意見が出ることは当然である。しかし、私はそうしたくない。だから、「不幸を耐えなくても不幸を耐えたのと同じくらいの結果を得ることはできるのか」をここでは考えたい。

そして、それが「理想的な生き方」の模索に通ずるのだと私は考える。


1.努力は報われない

私の趣味は、筋トレである。筋トレは、努力すればするほど筋肉をデカくしてくれる。その点で、「筋肉は裏切らない」なんて言われたりもする。

しかし、それは部分的に正しくて、部分的に間違っている。

前提として,私はそこまでガチでやっているわけではないことを強調しておく。

まず、筋肉がデカくなるためには、一般的に考えられるような筋トレ量以上のことをしなければならない。

また、筋トレは、筋トレするだけで終わりではない。筋トレで筋肉を損傷した分、それを回復させ、さらに成長させることができる量の食事をしなければならない。

さらに、その食事の内容にも気をつける必要がある。タンパク質や炭水化物のバランスを考え、ビタミンやミネラル、脂質でさえもしっかりと摂取しているかなど、栄養管理も大切な要素の一つなのである。

付け加えるならば、睡眠は最も大切である。筋肉は寝ている間にとても成長する。寝なければ、その筋トレ効果は半減すると考えても良いほどである。中には寝なくても筋肉をデカくできる人はいるが、それは少数派である。

以上のことからわかるように、筋トレは人々が考えているほど単純ではない。そして、「正しい努力をしなければ、報われない」。


努力にも二つの種類があるのだ。

正しい努力と、間違っている努力である。

言うまでもなく、間違った努力をしていては、その努力が報われることは一切ない。

しかし、人生の中では、正しい努力をしても報われない場合もある。
それは、たとえば受験であったり、就職活動であったり、人生のターニングポイントで失敗してしまえば、今までの努力が全て水の泡になる場合だってある。

その「報われない努力」に共通していることがある。それは、その努力が報われるか報われないかが、自分次第なのではなく、他者次第である場合だ。その点で言えば、筋トレは完全に自分次第である。自分の筋肉をデカくできるか否かは、他者の誰であっても無関係である。

しかし、受験で成功できるか否かはそうではない。「勉強すれば勉強するほどいい」のではないのである。たとえば、そもそもあなたの地頭が悪かったら、いくら勉強しても身につかないし、そもそも勉強の仕方が間違っている可能性も大いに考えられる。大学側の都合で、合格圏内であっても不合格になる場合もある。

他者次第で成功か否かが変わる「努力」など、しない方が良い。その方が幸せであると、私は考える。


2.努力は不要なのか?

しかし、私は努力は不要であるとは考えない。たとえば、多少なりとも努力しなければ、私の理想とする生き方はできない。言うなれば、こうしてnoteを書いているのも、努力の一部であるのだ。

すると、私自身の行動そのものがすでに矛盾しているではないか、と言う考えが浮かんでくる。しかし、そうではない。

私が最も理想であるとするのは、努力を努力と思わず、ただ楽しいものであり、私がしたいものであると考えることである。
こうしてnoteを書くのも、ある意味では努力であるが、しかし私がこれをしているのは私が望む理想的な未来のためなのではなくて、ただ私がnoteを書くことを楽しんでいるからなのである。

そして、このnoteを書くと言う行動が、私が望む結果をもたらしてくれるとも考えない。なぜなら、それは「希望」を持つことに繋がってしまうからである。

何度も言う。
ただ楽しいからnoteを書くのである。その結果お金が貰えたり、私の文章力が向上するのなら、それはそれで素晴らしい。

プラスにさらにプラスされるのなら、それはただ素晴らしいことなのである。

社会に多く見られるような、プラスのためにマイナスを支払うなんてことは、全くしていない。


3.解釈の万能性

言うなれば、「これは努力じゃなくて、ただ楽しんでるだけなんだ」と言うのは私自身の言動の矛盾を解消し、今の行動を正当化するための詭弁である。しかし、私はその詭弁こそ、最も「幸福考」において重要な思考プロセスであると考える。

「努力は苦しくない、努力は楽しい」と、心の底から信じ、実際にそう思えることさえできれば、どんな逆境も逆境ではなくなる。

たとえば、大切に飲んでいたウイスキーがあるとしよう。そのウイスキーの瓶を見て、「半分しか残ってない」と考えるか、「まだ半分もある」と考えるかには大きな違いがある。

これは、ただの「ポジティブ思考」ではない。ポジティブ思考をするということは、一度それをネガティブに捉えているということである。確かにネガティブをポジティブに置き換えることも良いことだが、そもそも見る世界全てがポジティブであるままであれば、そこにマイナス的な思考が混じる余白は存在しないことになる。

無論、私はこの境地には達していない。もし達していれば、そもそも「就職したくない」とか考えないだろうからである。
ただし、できるかぎりその境地に近づこうとは思っている。


4.嫌なことからは逃げるべし

そもそも、生理的に無理なものは無理である。

たとえば、いや、これは極端な例であるが、「ご飯を我慢しなさい」と言われ、何日もそれに従うという選択をとれば、「お腹がすいた」という苦しみを必ず味わうことになる。

「毎日100km走りなさい」と言われ、それに毎日従えば、必ず足が痛くなり、疲労し、不幸を感じることになる。

社会に生きるなら、上記ほどの極端さはないとしても、似たようなことはさせられる。

「毎日職場に来なさい」「残業しなさい」「あなたはこの部署に入りなさい」「遅刻するな」「挨拶しなさい」「努力しなさい」…これらはいずれも、「嫌なこと」である。私にとっては、いずれも、生理的に無理なのだ。

ただのわがままだと受け取ってもらって構わない。それが「生理的に無理なこと」であるからである。第一次的に無理なものは、どうポジティブに考えようと無理なのだ。私にとってのそれが、「社会に生きること」であるだけで。

その嫌なことは、私を不幸にするだけなのだ。仮にそれが私を幸福にしてくれるようなものであるならまだしも、それはただ「不幸」であり続ける他ないのである。
であれば、その不幸からは逃れるべきである。幸福の邪魔をするならば、それからは離れたほうが良い。その方が幸福を多く感じられる。

私はやりたくないことはやらない。単純に、それがやりたくないことだからである。その結果誰に何を思われようと関係がない。その社会的評価が私個人の人生に与える影響など、些細なものである。

しかし、それがやりたくないものであってもやらなければいけないこともある。


4.1.他人の個人主義を尊重すること

私は私の個人主義を尊重されたいと思っている。言い換えれば、私の邪魔はしてほしくない。そのためには、全世界の人間が私に献身的である必要がある。

そして、もし仮に私以外に「自分の個人主義を尊重してほしい」と考えている人間がいたならば、私は彼らの個人主義を尊重しなければならない。でなければ、私が私の個人主義を尊重してもらう機会を自ら捨て去ることを意味するからである。

これは捉え方によっては極端な自己中心的思想であるとも言える。つまり、私がこうであるから他の人もこうであるはずだ、と心の底から真剣に考えているのである。


具体的に、他者の個人主義を尊重するためには、

① 他者に危害を与えることはあってはならない。
② 他者に望むことは自らができることでなければならない。
③ 自らを律し、感情のコントロールをできなければならない。
④ 他者の選択を否定してはならない。

①〜④ 究極的には、自分がやられて嫌なことは他人にもやらないし、他人がやられて嫌そうなことは他人にはやらない。

以上のことを厳守する必要がある。
一言で言うならば、ジョン・シュチュアート・ミル著の『自由論』にて語られる、他者危害の原則を厳守すること。または、夏目漱石著の『私の個人主義』で語られるような原則を守ること。

それが、自己の個人主義と共に、他者の個人主義をも肯定し、尊重することの最低条件である。

ちょうど、私は他者と関わりたくないと考えている。だから、この条件は私にとっては非常に簡単なことである。単純に、他者と関わる機会を無くせば良い。そして、他者と関わる機会がどうしても必要ならば、その他者に対し以上の原則を心がけ、嫌な気分にさせないように極力配慮する必要があるものの、月に数回程度ならば特段「嫌ではない」。


4.2.他者に恩を返さなくてはならない場合

私は親に多大なる恩を感じている。親がいなければ、今の私はない。だから、親が助けを求める場合には、助けなければならない。

他者が私に助けを求めているのに、それを拒否することは、今後私が助けを求めても誰も助けてくれなくてもそれを許容することを意味する。

これもまた極端な自己中心的思考であると批判されそうだが、実際、私が誰かを助けないことは、誰かが誰かを助けないことに理解を示すことと同義である以上、正しい論証である。

だから、いくら私が他者を助けることが嫌でも、それを我慢して助ける必要がある。少なくとも、手を差し伸べる必要がある。でなければ、私が助けてもらえる可能性を自ら否定することになる。


4.3.逃げられない嫌なこと

最後に、逃げてはならない嫌なことなのではなく、物理的に逃げられない嫌なこともここで書いておくべきであろう。

それは、死である。私がニヒリズムを信仰するのも、この「死」と言う"絶対"が存在するからである。

我々生命体は、もちろん言うまでもなく「生」を持つ。しかし、残酷であるが、正しくそれを表現するならば「死」を持つのである。
そして、そう考える方が良い。そうすることで、無駄な希望も簡単に捨て去ることができるからである。

確定の未来を我々は知っているのだ。であれば、その未来を前提に全ての計画をするべきである。

死ぬことは嫌だ。最も嫌なことである。しかも、絶対に起こる嫌なことである。だから、それ以外の嫌なことは味わいたくない。

だから、嫌なことを我慢してお金を得るなんてことはしたくない。死ねばお金は必ず失う。死ななくても、誰かに奪われれば失う。獲得したものは、必ず喪失する。
端的に言ってしまうなら、社会的に価値あるとされる「モノ」全ては、無意味で無価値なのである

本当に価値あるものというのは、私という個人が、価値あると感じるものである。そして、それは「モノ」ではない。正しくは、価値あると感じる「瞬間」である。

私が嫌なことを我慢してまでお金を得る価値はないと考える理由は、それである。お金がなければ生活はできない。しかし、お金がたくさんなくたって、生活はできる。私がお金を得る理由は、それが生きることに必要だからなのであって、お金が生きることに不要なのであれば、私はお金稼ぎなどしない。
しかし、「お金を一切使わずに生きる」のは現実的に実現不可能であるから、せめて「楽しみながら」お金を得ることを大学4年間の間で実現しようと考えているのである。


最後に

今、大学生となり、不完全ではあるものの「時間からの支配という不幸」から脱出できている。だから、今現在の私は本当にストレスなく、本当に幸せである。しかし、もし就職するのだとすれば、今までの12年間の苦しみとは比較にならないほどの「不幸」が私に訪れることになる。

せっかく抜け出せたのに、どうしてもう一度あの不幸の元へ自ら足を運ばなくてはならないのだろう。私にとっては、「嫌なことを我慢する不幸」の方が「貧乏の不幸」よりも大きな不幸であると思うのである。

そして、「会話する」という行為は確かに楽しいものだが、しかしそのためにかなり大きな疲労をすることになる。会話による幸福と不幸が、私にとっては釣り合っていない。だから、誰とも必要以上に話したくない。

だから、私は就職しない。就職せず、お金をほんの少しだけ稼ぎ、ひっそりと、誰とも会話せずに生活したい。できるなら、山か何かに籠り、たまに家族のもとへ降りていくような生活が良い。
それが、今私が考えうる最高の幸福な環境だからである。

 言哲



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