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"立派な人"
そもそも,"立派な人"とは,どのような人だろうか?
──立派な人とは,良い行いをする人である。
では,良い行いとはなんだろうか?
──悪い行いと言われるものではなく,そうでない行いのことである。
では,良い行いをする人とは,悪い行いをすることなく,そうでない行いをする人のことだろう。これには間違いがなさそうである。
であれば,立派な人の逆である,立派でない人,即ち悪い人はどうだろう。
──悪い人とは,悪い行いをする人のことである。
では,悪い行いとはなんだろうか。
──悪い行いとは,不誠実で,不正であり,不節制な行いのことである。
どうやら,これも間違いなさそうである。
しかし,ここまで考えてきてなんだが,この「不」という接頭辞であったり,「でない」という接尾辞には,──それがなんなのかははっきりと言葉にできないが──不可解な点があるように思われる。
先ほどの「立派な人」と「悪い人」の情報をまとめると,立派な人というのはどうやら,「悪い行いをすることなく,そうでない行いをする人のこと」のようだが,その「悪い行い」についてさらに考えた「悪い人」についての情報では,「不誠実で,不正であり,不節制な行いのこと」なのだから,その二つを合わせて考えると,「不誠実で,不正であり,不節制な行いをすることなく,そうでない行いをすること人」が良い人,すなわち「立派な人」ということになる。
さて,情報の整理は済んだところで,進めよう。
では,先ほど私は「悪い」を「不誠実,不正,不節制」と考えたが,その一つ,例えば不正とはなんだろうか。
──不正とは,正義や人の道から外れることである。
では,正義とは何か。
──正義とは,人の道に適うことだろうか。
すなわち,不正とは人の道,人道から外れることであり,正義とはその人道に適うことである,ということだろうか。
──おそらく,そうとしか言いようがない。
では,その人の道,人道とはなんなのだろう。
──人道とは,人道とは,正義に,適うことだろうか…。
いやしかし,そうは言っても,それでは正義や人道という言葉を説明したことにはならない。それでは単に,言葉を言い換えただけになってしまう。いや,全く,私たちは言葉についての理解がここまで低いということだろうか。
──そんなはずはない,と私は言いたいが,どうやらそのようだとしか思えない。
どうやら,「悪い」について考え出すと,言葉通り,「不」の循環に迷い込んでしまうようだ。
では,当初のように,「立派」についてもう一度考えてみよう。
──立派とは,良いことである。良いとは,知恵があり,正義に適っており,節制のある状態のことである。であるから,立派な人とは,「知恵があり,正義に適っていて,節制のある人」のことを言う。
では,その知恵があるということはどういうことなのか。
──知恵があるとは,分別を持ち,正しい行いをするための判断基準を持ち,それを正しく運用する力を備えているということである。
では,節制があるというのはどういうことなのか。
──節制があるとは,欲望を抑え,自分が行いたいことについて程よく行うための理性や統率能力を持ち合わせているということである。
では,知恵があるためには,節制が必要ということになるのか?
つまり,知恵があるということは正しい行いをするための判断基準を持ち,それを正しく運用する力なのだから,その知恵を正しく運用するためには欲望や本能などの感情を制御する必要があるということだ。それはつまり,知恵を正しく運用するためには節制が必要ということになる。
いや,さらに言えば,正しい行いをするためには正義が必要なのだ。不正では正しい行いをすることができうるとは言えないのだから。であれば,知恵には,結局のところ,正義も,節制も必要だということになる。
すると,私は当初,知恵と正義と節制は,互いに影響はしつつも,独立した概念であるかのように認識していたのだが,──だからこそ,「立派」を説明するために三語を挙げたのだ──結局のところ,正義も節制も,知恵という一概念のうちの要素でしかなかったようである。
──しかし,そうだとすると,立派な人とは,知恵がある人である,という一語で説明できるということになる。
いや,しかし,だとすると,立派という言葉と知恵という言葉は大体同じ意味だということになってしまうのではないだろうか?
──そういうことになってしまう。だが,立派と知恵というそれぞれの言葉が持つ意味は明らかに異なる。無論,似たような意味であることは間違いがないのだが。
では,私の行った論理の,どこかが間違っていたということになるだろう。
──そうだ。私の論理展開の中で,どこかで間違った前提を独断論的に定義してしまったのだろう。私はそこまで賢い人間ではないのだから,もっと賢い人間が言葉を定義しているはず。そして,さらにその定義が皆に受け入れられている必要がある。
ということで,私の行う「◯◯は,△△だ。」という論理展開には不備があるようなので,辞書の言葉で考えてみることにしよう。
──では,例えば,美しいという言葉の意味を辞書で引いてみよう。
1 色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま。人の心や態度の好ましく理想的であるさまにもいう。
2 妻子など、肉親をいとしく思うさま。また、小さなものを可憐に思うさま。かわいい。いとしい。愛すべきである。
3 りっぱである。見事だ。
4 (連用形を副詞的に用いる)きれいさっぱりとしている。
色,形,音の調和がとれているとは,どういう状態なのだろうか。
──定義が抽象的すぎて,きちんとした説明をすることができないが,調和がとれているということは,その後に続くように,「理想的」な形を備えているのではないだろうか。
では,理想とはなんなのか。
──理想とは,辞書によれば以下のようである。
1 人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態。
2 理性によって考えうる最も完全な状態。また、実現したいと願う最前の目標あるいは状態。
──つまり,プラトン哲学的に言えば「イデア」のことであろう。
それはそうだろう,イデアという語は理想を意味するのだから。しかし,その理想に適う姿のことを「美しい」と定義するなら,その逆の「醜い」はその理想に適わない姿のことを言うのだろうか。
──つまりはそう言うことなのだろう。
であれば,美しくないものは醜いものなのか。
──そこまで言うと,言い過ぎな気がする。私たちは基本的に,その中庸の存在の方が多いと認識している。すなわち,美しくも,醜くもない者が多いことを。
では,どこからが美しくて,どこからが醜いのか。
──醜いとは,辞書では以下のように定義されている。
1 顔や姿かたちがよくない。
2 見て不快な感じがする。嫌な気持ちがする。見苦しい。
つまり,顔や形が整っていれば,「良い」で,整っていなければ「良くない」なのか。
──そうだ。
なら,その整っている状態は何を以て整っていると判断されるのか。
──それは,先ほどのように理想に適っているか否かなのではないのか。
しかし,だとすれば,その境界線や中庸の存在への説明はどうなるのだ。その判断基準が理想であったとしても,なかったとしても,私たちはどこからが美しく,どこからは普通で,どこからが醜いのかの判断基準を持たないということになるのではないか。
──わからない。わからないのだから,つまりは明確な基準を持たないのではないだろうか。理想というのは,あくまで参考程度なのではないか。
ならば,私たちはどうやって醜美の判断を行うのか。さらに言えば,どのようにしてそれらの中庸が中庸であると判断できるのか。もっと言えば,これは善悪の判断にも通ずる。すなわち,良い,良くない,悪い,悪くないは如何にして判断されるのか。
──理想が判断基準になっていないのだとしたら,社会通念によって判断されているのではないだろうか。
では,ある国では「韓国系イケメン」の見た目が醜いとされていたら,彼らは醜いということになるのか。
──そういうことになる。
では,本来は益虫である「ゲジゲジ」という気持ちの悪いムカデのような虫が,私たちの国では害虫であるかのように扱われているように,その国では「猫」が有害であるとされていたら,みな猫を害獣として扱うのか。
──そういうことになる。
つまり,その実がどうであれ,人々の中の常識や共通認識によって,醜美の判断や,善悪の基準が設けられているということか。
ならば,立派という評価も,個人個人の評価基準よりも,それら一人一人の評価基準が複雑に絡み合うことで形成された社会通念によるものということになるのか。
──おそらく,そうだ。立派とは,辞書によると,以下のようである。
1 威厳があって美しいさま。堂々としているさま。また、非常にすぐれているさま。
2 十分に整っているさま。不足や欠点のないさま。
では,立派な人は,威厳があり,美しく,堂々としていて,他者よりも優れており,整っていて,不足や欠点がない人間ということになるのか。
──そうだ。
いやしかし,だとすると,私たちは立派な人間になれないのではないのか。
──どういうことだろうか。
立派な人間というのを,先ほどのような定義で考えた,という前提のもとであれば,私たちは立派な人間であることはできても,立派な人間にはなれないということになる。
つまり,不足や欠点のない人間になることは私たち人間なら不可能である。私たちは必ずと言って良いほど欠点があり,不足がある。さらに言えば,美しいという評価も,ある国では美しいが,ある国では醜い,という揺れがある以上,私たちは絶対的に美しくあることもできない。そして,優れている,というのも,それは他者にとっての自分よりも優れているのか,それとも社会通念上,優れていると評価されることで優れていることになるのか,そのあたりもかなり曖昧だ。
仮に,立派であるという評価が社会通念によるものか,もしくは個人個人による判断なのだとして,そして,その評価基準はとてつもなく曖昧であるが,問題はないのだとして,果たして私たちは立派な人間になることはできるのか。
──それは,立派な人間と評価される人がいる以上,何か道はあるのではないだろうか。
では,立派な人間とは,立派な医者であると仮定しよう。
その立派な医者は,今までたくさんの手術を成功させ,多くの人間を救ってきた。が,ある日,とても簡単な手術で失敗をし,一人を死なせてしまった。
簡単な手術であったのだから,彼の失敗は凡ミスのようなものだった。それについて彼は非難され,「悪い医者」として誰も手術を頼まなくなった。
この時,彼は,立派な医者ではなくなった。
──そういうこともあるだろう。
このことが意味するのは,人間はある時には立派であり,ある時には立派でないということではないか。
──そういうことになる。
同じような話で,私たちには善意というものがあり,あたかもそれが人間の専売特許であるかのようにもてはやされているが,さて,私たちは見知らぬ人に対して,常に善意を持って接することができるだろうか。
──できない。昨日は,困っている人を助けたけれども,今日は疲れていたので無視した,なんてことはザラにある。
そうだ。ならば,私たちはある時には優しく,ある時には冷たいということになる。
このように,私たちは,立派であったとしても,一つのミスで立派ではなくなるし,昨日は立派でなかった人も,ある日突然立派な行動とされることをすることで立派である状態になる。
──なら,私たちは立派であり続ければ,立派な人間になれるのではないか。
しかし,私たちが立派であり続けることは不可能なのだ。というのも,例の医者の話もそうだし,そもそも欠点のない人間などいないのだ。いつかはミスをし,あるときにおいて立派でなくなる。むしろ,惨めな時もあるだろう。さらには,仮に,たまたまミスをしなかったとしても,何か災害のようなものに振り回されることもある。すなわち,自らの力が及ばなかった領域において,何か問題が発生し,それを解決できなかったり,さらに問題が起きたりすることで立派でなくなる。
──「である」ことと,「なる」ことは異なり,断続的に立派であること,すなわち「である」ことはできても,永続的に立派であること,すなわち「なる」ことはできないということか。
そうだ。しかも,「立派」という定義もかなり曖昧であることも忘れてはならない。
私たちにとって,「立派である」ことはそもそも,かなり困難なことなのだ。が,不可能ではない。しかし,「立派な人になること」は不可能であるのだ。
日本人がある時には"ヨーロッパ人"であることは可能だとしても,日本人が"ヨーロッパ人"になることが不可能なように。
言哲